狸の茶釜
『狸の茶釜』注1はすべて無料のお店です。
なんのお店かといいますと、ちょっとした飲み物や料理が出せます。それから本がありますし、泊まれます。
わたしは長野市戸隠の古い家――老人ホームにいる祖母のおこずかいで買った――に住みながら、畑をやったり、庭をいじったり、狩りをしたり、薪をつくったり、家を改築したりしています。でもしょっちゅう実家にも帰っていて、ご飯食べたり、酒飲んだり、シャワー浴びたり、犬の散歩したり、まだ幼い甥っ子たちと遊んだりしてます。
来ていただいた方には、畑でとれた野菜や、狩った獲物、釜戸で炊いた米、引いている沢水などをつかった料理を提供できます。また、この場所でのわたしの生活の一端をお見せできます。
一緒に山に入ってもいいと思います。薪を割ったり、火を焚いてもいいでしょう。
ここではそういった体験もできます。
注1:店主森尻の苗字の由来が群馬県館林市にある茂林寺だという嘘かほんとかわからない話(ちょっと調べたところ、いまのとこあやしい)が家族から伝わっており、茂林寺は分(文)福茶釜ゆかりの場所。
制作
わたしは、美術大学注2にいっていました。いっていたといっても授業にはあまり熱心ではなく、結局のところ出席日数が足りず、留年が決まり、学費も払えなかったので、そのまま辞めてしまったのですが。わたしはよく親不孝ものといわれます。大学を三度中退しました。もはや中退芸ですね。そのあと定住もせず、定職にもつかずふらふらしていました。いままで経験した職は十を超えます。けれども、ただふらふらしていたわけではありません。どの職場も、たしかに辛いときもあったのですが、それだけではなかったですし、すべての経験がわたしの財産となっています。またわたしは学校の授業とは別の場所でも注3、何かみたり、話したり、やったりしていました。いまもひとやその他のものとかかわりながら、何かやったり考えたりしつづけています注4。そのなかで、芸術、というか制作は、人間の営みのなかですでにやっていることや、つくっているもののなかにもあるのではないか、と考えるようになりました。
注2:二つ目の大学。東京造形大学美術学科彫刻専攻
注3:職場や旅先、留学先の他に主な場所を書いておきます。アステール総合美術研究所(静岡三島市にある美術予備校。わたしがいた当時は、一般部、基礎部、受験部、児童部と四つの部門にわかれていて一つ目の大学に在学しながら、あるいは休学中、退学のあとまでもどっぷりつかり――児童部は見学程度に――絵画、彫刻などの美術、芸術の基礎を学びました。受験部にいるときの美術史の講義で、ヨゼフ・ボイスやマルセル・デュシャンを知り、衝撃を受けました。所長の水口さんからは美術、芸術を含む、既存の価値観を疑うこと、創造とはもっと幅広いものだということを教えられました。)、CSLAB(東京造形大学キャンパス内にあるスペース。学生自ら授業をつくって単位を取得したり、企画や展示をしたりする場所。学年、学科や専攻、学校までもこえて交流がおこなわれている。わたしは学生時代一時期運営に携わっていました。大学を辞めてからも一回展示を企画しました。)、raccoon dogs teakettle(2015年当時わたしが住んでいたアパートの一室をスペースに設定し発足。またそのスペースを箱に移転し持ち運ぶプロジェクトなどをおこないながら、各所でイベント、企画、展示などちょっとしました。前身と後身は、何か考えたりやってみたりするためのプロジェクト。たとえば、水たまりを飛び越えてみる、農作業をしてみる、ガラケーをスマホにかえるなど。そしてこの店につながります。)、blanClass(横浜市井土ヶ谷、Bゼミの跡地でパフォーマンスやイベント、展示、トーク、インタビューなど実験的な催しがおこなわれた。毎回シンプルで美味しい料理を振舞ってくれた。)、CAMP(様々なバックグラウンドのひとたちがいろいろなことについて話し合うイベントを主催。ぐだぐだな時が好き。)、art & river bank(多摩川沿いのビルの一室にあったオルタナティブスペース。ベランダで夕日をながめながら飲むビールは最高。)、女子美術大学(基本、部外者禁制なんですがart & river bankのディレクターでもあった杉田さんの授業や企画にもぐり込んでよく酒を飲んだっけ。)、nano school(blanClassで杉田さんが催したオルタナティブなアートスクール。知ってるつもり、わかったつもりのことをかぎりなく小さくして見つめてみる学校。打ち上げの飲み屋ニューイドガヤが本番だった気もする。)、School-in-Progress(鳥取市のスペースことめやを拠点に「暮らす」と「つくる」をキーワードに、すでにあるものや生活、日常を見つめ直し、創造性の在処を見つけ、それを自らの内に育む力を身につけるためのオルタナティブなアートスクール。)など。みんな、元気かな?
注4:コジロジオット3(長野市にある飲み屋。小川村在住のアーティストの斎藤さんが営むバー形式の作品――とわたしは思っている――あらゆる人間――ほんとにあらゆる人間!――が雑多に飲み、語り合う、現代のキャバレーヴォルテール――とわたしは思っている――。豊富なアルコールと、自家栽培の野菜、ジビエ料理は絶品。)、読書会クニハ(コジロジを学校と呼称し、毎夜通学する某新聞社の社員桂川さんが主催する読書会。老若男女が本を読み、語り合う。その後の飲み会も👍)。
自然
山で暮らすことで「自然注5」を身近に感じることになり、「自然」についても考えるようになりました。
古代ギリシアでは、「自然-physisピュシス」は「つくること-techneテクネ」の反対のものだった、とよくいわれます。しかしほんとにそうなんだろうか? とわたしは思いました。植物や動物をみたり、感じたりすると、けしてそんなことはないのではないか、と思えてきます。「つくること」と「自然」は同じだと思うようになりました。(調べてみると、ソクラテス以前の哲学者にはピュシスはテクネをおおうもののように考えているひともいたみたいです。)さらにいうと、つくることと生きることも同じことだと思うようになりました。(このことについて、詳しくは本を書いています。いつできるかはわかりませんが)。
わたしは、そういった自然-制作-生の関係や「流れ」に関心があります。できれば、おおくの自然-制作-生をみたり、感じたりしたいと思ってます。ですから、この場所での料理や体験を、お金ではなく(お金は腐らないし、持ち運びができて便利なのですが、お店での交換の方法としては、ありきたりで面白くないなと)、皆さんの制作と交換したいのです注6。
もちろん、何ももってこなくてもかまいません。来ていただけたらそれでいいのです。生きてるだけで制作ですので注7。皆さまはすでに精神的にも物質的にも「つくられたもの」です。できたらです。できたらでけっこうですので、制作、つくったものならちょっとしたものでもなんでもいいので、持ってきていただければうれしいです。お土産みたいな感じで。
なんでもよい、といわれても困りますよね。ほんとになんでもいいんです注8。なんならつくってないものでもかまいません。好きなものや影響を受けたものなど。
ほんとにちょっとしたものでいいんです。わたしも大したものは提供できません。
注5:「自然」にはいくつか意味がありますね。「自然環境」など周囲をとりまくものとしての自然。「すべて、宇宙、森羅万象」という意味の自然、「ありのまま、無為」といった意味。わたしはこれらの概念が混ざりあったり、おおいあっていたりすると思うですが、そのことについても本で書きます。
注6:わたしはこのお店をR・ブローティガン『愛のゆくえ』の図書館のような、市井のあらゆるひとが書いた本を保管する場所みたいなものをイメージしているのかもしれません。あるいはP・クロポトキン『共産食堂』のこじんまりバージョンともいえるかもしれません。
注7:「すべてのひとは芸術家である」といったヨゼフ・ボイス、「しかし個人の生が芸術作品になりえないでしょうか?」といった後期ミシェル・フーコーの「生存の美学」が念頭にあります。
注8:たとえば、野菜、料理、編み物、服、小物、話、落語、漫談、漫才、コント、一発芸、物真似、芝居、踊り、パフォーマンス、歌、演奏、映像、ウェブサイト、ゲーム、絵、イラスト、漫画、小説、詩、戯曲、短歌、俳句、日記、手紙、はがきなど。
経済
「流れ注9」という言葉がでましたが、わたしは経済のことも考えるようになりました。経済といったときに、いまほとんどのひとがお金を使った流通のことを思い浮かべると思います。けれどもここで暮らすことで、どうやら経済とはお金だけでなりたっているものではないことに気づかされました。
経済についてちょっと調べてみると(wikiとか)、もともとの訳語であるeconomy(英)は、古代ギリシア語のオイコス-ノモス(oicos-nomos)が語源とされています。オイコスは家、ノモスは法、管理、習慣といった意味だそうです。翻訳ではこれを家政術と訳していました。経済のもともとの意味は、とても身近な、家での生活をどうやりくりしていくか、という術だったんじゃないかと思います。生きるなかでさらされるあらゆる「流れ」のなかから、うっかり受けとってしまったもの、時に必要だと思ったものをとりだして咀嚼し、再び「流れ」へ、うっかり放り込んでしまう、あるいは処理してもどしていくこと。それが経済の基本だとわたしは思ってます。こういうと芸術みたいですね。でも、芸術も経済です注10。
ここで暮らしていると、さまざまな「流れ」のなかで生かされていることに気づきます。畑や庭でとれた野菜や山菜を食べたり、狩りでとらえた動物をさばいて食べることや、木を薪にしてお湯を沸かして風呂に入ることで、エネルギーのサイクルを身近に感じるようになりました。
おそらくそういった「自然」とのかかわりで感じる「流れ」と同じように、ひととひとの関係にも「流れ」、経済があるのだと思います。表情や仕草、言葉から受けとった何かが入ってきて、反射的に、あるいは吟味して返答する。そこには「流れ」があります。
お金を使わないお店をやることも、ふつうにその辺にある、皆さんもすでにかかわっているあらゆる「流れ」を見やすくするための、まあ実験のようなものかもしれません。
お付き合いいただければ幸いです。また来店された方の制作を、他の来店された方がみたり、体験できるようにもしたいと思ってます。
わたしは近くの介護施設に勤務して(いまのところ)必要なお金を稼ぎながら、このお店を運営することになります注11。
お金がいらない、とはいえ、家の修繕や改築、制作物の管理、そもそもわたしの生活にはお金が必要です(各種税金や社会保険料、奨学金の支払いのほかに借金も返済しなければなりません)。もしこのお店が気に入ったというお金に余裕のある方は、少しばかり寄付などしていただけると大変助かります注12。わずかでもうれしいです。もちろん、しなくても大丈夫です。特にお礼などは考えてません。
来店の際は、予約のご連絡をいただければ助かります。できれば数日前、もっとはやくにご連絡いただければそれなりの準備ができると思います。どのような提供ができるかは具体的にお伝えしますし、相談もします。ちょっとめんどくさいですかね。準備ができなそうでしたら、できませんと正直にお伝えします。
宿泊や、滞在制作してみたい、仕事場として使いたい、という方も気軽にご相談ください。
あと食べるのに困ってる方もふつうに来てください。食事のほかに、できることがあればします。
2024年初夏 店主 森尻 尊
注9:経済における「流れ」は坂口恭平さんが念頭にあります。また「流れ」にはリズムがあります。この考えが思いついたとき、千葉雅也さんの『センスの哲学』を連想しました。
注10:アーティストの白川昌生さんは芸術は贈与と深くかかわっているといっています。贈与は経済の一つの形ですので、芸術は経済の一つであるといえる。現在、表立った贈与は資本主義ありきでなされることがおおいので、芸術はお金とも親和性が高いのです。このことも本で触れようと思います。
注11:江戸時代には「稼ぎ」と「仕事」は違うものだったという話を見聞きしたことがあります。このお店は「稼ぎ」ではなく「仕事」の部類に属するのでしょう。ハンナ・アーレントの分類でいえば、「仕事」と「活動」が半々くらいで混じり合い、この二つをやんわり薄くつないでるのが「労働」、といった感じでしょうか。
注12:脱税が目的、ではなく、わたしが自由に好きなようにやるためにはどうしてもお金を稼がないお店にする必要があったのです。結果論ではありますが。ちなみに、寄付でいただいたお金を必ずしもこのお店のためだけに使うとは限りません。もちろん、お店の運営には力を注ぎますが、そもそもわたしがある程度の余裕をもっていなかったら、お店を運営することができません。ですので寄付金はわたしの自由に使わせていただきます。当分は、店をどうにかするために使った借金の返済か囲炉裏の制作にあてると思います。
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狸の茶釜は、長野県長野市戸隠にオープン予定のお店です。なんのお店かはまだわかりません。飲み物をおいたり、食べ物をおいたりはしようと思ってます。本なんかも。もしかしたら、泊まれるかもしれません。やっぱりまだよくわかりません。なるようになってくれればいいのですが。まあ、少しずつ考えていこうと思ってます。
このホームページは、お店ができていくところを記録し、公開しようと思ってつくりました。わたしは怠惰の上に怠惰を塗り固めたようなにんげんです。そういうにんげんには、何かルールや、きまりが必要です。でなければ、ほんとうに何もしなくなってしまいますからね。それもそれでいいなあ、と思うのですが、わたしの場合、きっと何かしないと生活するのがむずかしくなってしまうのです。というか何もしないことにたえられないのです。ですから、とりあえず「お店」をはじめてみることで、このホームページを更新しつづけてみることで、じぶんに制約をかしてもいいのではないか、と考えたのです。しかしまあ、ほんとはそんな制約まもる必要ないよなあ、とも思ってしまいます。こういう考えが、きっとダメなんでしょうね。ということでまあ、ほんとにいつできるのかわかりません。このホームページもいつできるかわかりません。できないかもしれません。できたとしても変わりつづけていくでしょう。いえ、きっとできないでしょう。できる気がしません。特にやる気がある、という風でもないですし。できたとしても、なんじゃこりゃ、と言われる類いのものになるでしょう。おそらくそれは失敗でしょう。失敗するでしょう。なりたたないでしょう。でも、それでも、破綻したそこに何かがあったなら、何もないはずのところに、何かがあったとしたら、それを見落とさないようにしたいです。
古い家なので、改築をすすめてます。家も、家でおこる出来事も、まわりをかこむ森のようにもりもりと、気のむくまま、てんでばらばらに、いろんな方向へいってくれればいいのですが。もりじりだけに。あっ、店主の名前です。
店主(2021年~)