七月九日
- takashimorijiri
- 7月9日
- 読了時間: 4分
更新日:8月9日
通っていた飲み屋の十三周年ということで祝いにいった。店をつづけるというのは大変なことなのだろう。店主は素晴らしい。けれどもいろいろやってきてしまった、できてしまったことの苦しみもあるようだった。むかしから誰にも正直な意見をいわれない、あるときどうして誰も教えてくれなかったんだろうと思うことがある、それが切ない。店主はそういっていた。
おまえみたいに隙だらけでみんなからやいやいいわれてるのがいい、ともいっていた。
そうだと思う。ありがたいことにぼくにはみんな率直な言葉を投げかけてくれる。馬鹿にされている、ということでもあるかもしれないけど、それでも何もいわれないよりはましだ。
ぼくはよく馬鹿にされる。おおむね、中途半端、何も長続きしない、本気じゃない(あるいは、本気になれ。とはいえはぼくはいつも真剣なのだけど、どうも「本気」に見えないらしい)、偉そうだけど何もしていない(あるいは何も結果をだしていない)、逆に何もしてないくせにひとを見下している、馬鹿にしている(そのつもりはなく、ただ正直に振る舞っているのだが、もし馬鹿にされていると感じさせてしまったなら申し訳ない)、クズ、誰々より下、作品が面白くない、といった感じ。
どれもそういわれても仕方のないことだけれど、おおいにぼくの実感とはことなってはいる。
だから誤解をとこうと説明をするのだが、それはまたぼく独特の考え方によるものらしく、まったく理解をえられないし、なんなら口だけだとさらに馬鹿にされる。
ぼくの見えてる世界はおおくのひとがばらばらの世界を見ているのと同じように、他のひととは違う。とはいえその溝はいまのところ埋めがたい。ぼくのまわりにある溝は他のひとのまわりにある溝より深いと感じてしまう。埋まるものでもないし、埋める必要もないかもしれないが、誰にも理解されないというのはやはり悲しい。これまでたくさんかかわり、話してきたごく近しいと考える知人たちでさえぼくの考えや感覚がまったく理解できない。どうしても駄目なものに見えてしまうらしい。(理解されれば、駄目なものには見えない、とぼくは考えているようだ)
ぼくも何かしら目に見える形でかれらに示すことができればいいのだけど、ぼくのやってることや考えてることは、とても見えずらいし表しずらいものだからやっかいだ。
形というのはもうすでにそこにあるのに、それが見えていない。もう見えているものを再び違った視点で見えるようにすることはなかなか難しい。おおくのひとにとって、形になるとは、ふだんは隠れていて、あるいは存在しなくて、ある時突然目の前に現れる、そして見える、という類いのものらしい。形とは生成、構成の過程でも「在る」のに。
こういった抽象的(あるいは曖昧)な話しとは別に、いわゆるかれらのいう「結果」についても、あまり興味がわかない。いつか目に見える「形」になれば納得するのだろうか。けれども説明し、自らを示すために「形」にする気はあまり起きない。それより自らの見えているもの、感じ考えていることと、いくつかの制作をとおして戯れることに喜びと満足を感じてしまう。それ自体が形なき形ともいえるだろうか。
お金にならなきゃ意味がないとか、売れてなんぼとか、よくある価値判断はわかりやすいし、わからなくもないが、ぼくはあまり興味がもてない。どうでもいい。せめて何か残せれば、とも考えるし、評価されるかどうかはさておき、結局ものは残るんだろうけれど、それにもあまり積極的になれない。どうでもいい。それがおおくのひとに理解されるとも思わないし、理解されたいともあまり思わない。でも悲しいは悲しい。理解されたい、という気持ちはあるようだ。その気持ちを素朴に大事にした先が、「売れる」ということなのかはわからない。「売れる」になったひとを否定してるわけでもない。むしろ学ぶこともおおい。
となると、やはり広い意味での「制作」、生それ自体をたゆたうことにぼくはもっとも高い価値を見いだしている、ということになる。
おそらくこれからも誤解され、馬鹿にされつづけるだろう。たとえこの文を読んだとしてもやはり溝は埋まらない。ネタとして消費されるのがおち。悲しいがしょうがないことだ。わかったつもりになられるのもやっかいではあるし。こんなことを書くのはみっともないと思われるかもしれない。けれどもとりつくろったかっこよさより、正直なみっともなさを選びたい。選びたいけど、かっこつけてしまうときもおおい。この日誌でさえところどころそういった要素もある。書くということは自分にいい聞かせるという側面もあるから気をつけないといけない。
それに、ほんとうにぼくは何の価値もない、ただの馬鹿なのかもしれない。たとえそうだとしても、それはそれで、まあそうか、という感じしか覚えないだろうけど。
やることしかできないのだし、やることは変わらない。やっぱり馬鹿かもしれない。
ひとの評価は気になるものだ。けれどもものすごく気になるわけでもなく、気にする必要もない。
おそらくぼくが思うよりおおくのひとが「形」は違えどぼくと同じようなことを考えたことがあるはずだ。
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