六月七日
- takashimorijiri
- 2022年6月7日
- 読了時間: 3分
更新日:2022年6月13日
昨日、飯縄の天狗の湯にいって――飯縄の天狗伝説はいままで知らなかったが、とても興味深い。三郎という有名な天狗が信仰されていて、飢饉の際には、飯縄山でとれる食べられる砂を全国に配ったらしい――ちなみにその砂は現代では微生物の塊ではないかとされており「飯縄」の語源といわれている――その帰りに森の小脇にぽつんとあるレストランに寄った。木造のところどころが傾き、破損しているログハウス風の店の外には、階段から入口まで色とりどりの花が飾られており、まるで魔女の小屋のような印象を受けた。店に入ってからもその雰囲気は維持されており「いらっしゃいませ」と細い黒縁の楕円形の眼鏡をかけた白髪の中年女性が顔をだした。首元には紫色の宝石のネックレスが雨間の陽光に照らされあやしく煌めいている。
「ひとりです」とぼくはつげる。
「お好きな席へどうぞ」と彼女がいう。
ぼくは入口近くの窓際の席に座った。後ろには小型の薪ストーブがあり、ストッカーには木っ端が積まれている。窓の外を眺めると、鉢で育てられている数々の植物、階段を囲うように並んでいる木枠のアーチにも植物のつるが巻きつき、花を咲かせている。
食事をとり、コーヒーのおかわりを飲みながらハーマン・メルヴィル『白鯨 上』(田中西二郎訳 新潮文庫)を読んでいた。ちょっとまえまで受けつけなかったが、いまでは面白く読めている。大胆にかわる場面転換とその都度変容する文体、ときおりのぞかせる百科事典的執拗な説明(鯨や白についてなど)。エイハブの人物造形とそこに突っ込みを入れるスターバック(某コーヒー店の名はここからとられているとのこと)。何より興味をひかれるのは、ほんのたまに、一文で匂わせるような、けれども突き抜けるのを拒んでいるようなメタフィクションぽい要素があること。――もちろん、そもそもメタフィクション感満載なのだが、あからさまなメタフィクションとは異なる、破綻ぎりぎりのもの。たとえば、主人公イシュマエルではなくメルヴィル自身が語っている、あるいは書いているように読めたり、書き手と読者の関係について考察していると思わされるところがある(と、まえ書いたところを読みかえして、読んでいたときを思い浮かべながらつけたしてみた。また該当箇所についてはあとで気がむいたら読みかえしてみる←該当箇所が「白鯨」のことをいっているのか、「この文」のことをいっているのか曖昧。こういう曖昧さが意図的にか偶然にかのこっていると何かが匂い立つ。それは現実と虚構の曖昧さ、境界のよくわからなさ、といいかえてもいいかもしれない)。原書を参照していないから訳の問題かもしれないし、ぼくの過剰反応かもしれない。いずれ調べてみたい。ようやく上巻の終盤。眠くなるときもおおいけど。
帰ろうとすると、入口の脇のバスケットに、植物の写真とその解説が書かれている名刺サイズのカードがホルダーでとめられ、ごそっとおかれている。ぼくがそれを眺めていると――というのも、ぼくの家の庭に咲いている気になってた花がカードにのっているのを見つけて、興味をそそられたから(ぼくはじぶんの庭に咲いている花の名前すら知らない。そのときカードで見つけた名前ももう忘れてしまった)――店の女性と話をすると、知り合いが一時期植物を調べるのにはまって、そのひとに連れられて一緒に近くの森を歩きまわったという。そのひとは、図鑑で植物の種類をチェックしながら、地道に小さな植物カードをつくったという。店に来る客や、周囲のひとからは植物カードの商品化をのぞむ声があったにもかかわらず、いや趣味だからとその気をおこさないとのこと。植物のつぎは虫にはまり、新種を発見したが、表にはでなかったらしい。いまは社交ダンスにはまり、かなり上達しているらしい。
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