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十月九日

  • takashimorijiri
  • 2021年10月10日
  • 読了時間: 2分

二回目の栗をひろった。

これで今年はもう栗は落ちてこないだろう。裏の家の方がそういっていた。

一回目ほどたくさんは落ちていなかったけれど、それでもコンテナの底いっぱいうまるくらいにはとることができた。

一回目は、落ちている栗の実を、ただひろうという感じだった。

二回目は、毬状にいががついた殻斗を剥がしながら、包まれている栗の実を抜きとらなければならないことがおおかったように思う。慎重にあつかっても、厚めの手袋をしていても、いがが指に刺さり、痛みがともなうことがおおかったように思う。

ところで、何かを得るためには、何かを失わなければならない、といわれることがある。

ぼくはそのことを、あまり信じていない。「あまり」というのは、そうしなければならないときもある、ということと、そう解釈してしまうときもある、ということを、わかっているからだ。でも基本的には、信じていない。

栗をひろうときの「痛み」は、何かを失うことで起こるものではない。何かを得ようとすることで起きるものだ。その「得ようとする」こともべつに、じぶんのものにしよう、という強い意思があったわけではなくて、ただそこにあるからひろっている、という感じだったのだ。こどもが、目のまえにおもちゃがあったら、何も考えず夢中で遊びはじめるように。

ぼくは栗をひろうために、何も失ってはいない。ただただ与えられている。「痛み」とともに「傷」ができたときでさえ、そこには失っているものなど何もない。

だから何もおそれることなく、もくもくと栗をひろうことができた。

そこに「痛み」がともなおうと「傷」になろうと、おそらく栗を手にいれるということさえも、たいした問題ではなかったのだろう。

 
 

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