四月二日
- takashimorijiri
- 4月2日
- 読了時間: 7分
更新日:4月7日
いつのまにか、四月になっていた。庭に積み重なった雪は、気温があがったことで少しずつ溶け、地面がみえる範囲が広がってきた。半月もたつころにはほぼ溶けているだろう。けれどもすべてではない。
雪の影響で屋根が損傷した。また修復してもいいが、このまま壊れるに任せていくということも考えている。下手に修復するよりは解体していって、家の構造をスリムにしていくというのもありだと思いはじめた。茅葺だからしばらくは雨漏りはしない。もししはじめたら、してる場所の下にもうひとつ小屋をこしらえるだとか、完全に解体して外ということにしてしまうとか、いろいろ考えている。ともかく無理に直すということにあまり関心がむかなくなってきた。直しても壊れるものは壊れる。もっと解体、壊れているところを見たい/見せたい気もするし、解体と構築がせめぎあうような様相が見たい気もする。壊れながら適切な補修をする。
今月からキッチンに手を入れはじめる。作業台を購入し、壁の施工、釜戸の調整にはいる。借金は返し終わり、経済的に少し余裕ができそうだ。焦らずやっていく。それから狩猟の事務的な手続き、畑、庭とやらなければならないこと、やりたいことが散らかっている。毎年のことだが春だな、と思う。
先日知人の主催するイベントに誘われて、約七年ぶりに東京にいってきた。夜勤明けで寝不足だった。
イベントはロバの餌を食べるというもので、ロバと芸術生産をテーマにしたタブロイド紙の関連イベントだった。そのタブロイド紙にぼくの記事が少し載るから、呼ばれたのだろう。なぜぼくが載るのかもなぜイベントに呼ばれたのかもよくわからないが、ぼくほどロバっぽいやつもそうはいない、と思われていてもおかしくない、とは思う。
東京はひとがおおかった。ただおおいだけではなくて、様々なひとが入り乱れていて、よくこんな状態で社会がまわってるなあと不思議に思った。まあまわってないかもしれなくて、まわすひとがまわるところだけまわしてまわってることにしてる、あるいはそう見えてるだけ、ということも十分に考えられる。というかおそらくそっちのほうが事実だろう。
しかし様々なひとが様々な恰好で生きている様は異様な光景ではあったが、普段は田舎、地方都市にいるぼくとしては面白く見えた。なぜこれだけ好き勝手な恰好をできるのだろう。他人の視線に対する無関心と、ある層に対しての関心がごちゃまぜになっている感じがする。
電車から見える風景もそうで、あらゆる建造物があらゆる用途に沿ってそこにあり、窓からはひとびとの生活がかいまみえる。世界屈指の密度で、ひとびとの生がしきつめられていて、またそのあいだを縫うように生き、すれちがい、時にはぶつかったり、軋轢が生まれたり、友好な関係になったりしている。
森だな、ということを電車に乗りながら考えはじめていた。森と都市は似てるといえば似てる。
最初に森に入ったときは、その情報量のおおさに圧倒されたけれど、東京にも同じようなものを感じた。しかしどちらもあまりにも情報量がおおいため、おおくの情報をシャットアウトして、見たいもの、見えるものだけを見ていくしかない、そうせざるをえない。そうしなければやっていけない、という感じがする。
情報の質のちがいについていえば、森の情報は、情報未満の情報というものがおおく、得体のしれないところに放り込まれたような感じがある。それが怖くもあり心地よくもある。
対して東京は、もちろん情報未満の情報もあふれているのだけれど、それよりも記号化され、整理され、あるいはアピールされた情報が目立ち、生理的にそちらに目がいってしまう。まるで絵画の視線誘導のように、最初に広告に目が行き、それから建物、人、と目が移っていく。その乱立。隙間にある膨大な情報未満の情報は、記号化された情報に飲み込まれてないことになってしまう。しまいがちである。
しかし東京が生態系の一つであることもまた事実であり、森とさほど変わることはない。森にだって広告はあり(非人間による)、記号化されるものはある(動物間の鳴き声や、物質的な移動、数々の痕跡、意味)。自然ならざる自然。
ぼくはしばらく東京のアートコミュニティから離れていて、久しぶりにそのうちの一つのコミュニティのイベントに参加したのだった。思ったことを書いておく。
まず、ぼくが出入りしていたいくつかのコミュニティはどれもかなり特殊なものだったということ。コミュニティで醸成される空気や文脈、表現は、他ではありえない特殊なものだったということ。ハイコンテクストであり、洗練されている感じも覚えた。これは当時はわからなかったことだ。あるいはまだ熟成されてなかったのかもしれない。コミュニティは変化し育っていく。
当時ぼくはオルタナティブなコミュニティに可能性をみていた(愚かなぼくが想定するコミュニティとは画期的なモデルとなるようなユートピア的ものだった。そしてそれは具体的な場所としてイメージしていた)。あるいはひととひとの対話に。しかしいろいろあって不満も感じていたのだった。過度に期待しすぎていたし、自分が何もできないから、自信がないから、ひとのせいにしていたのだ。なんとなく窮屈に感じてしまっていた。自分の方向性との乖離も感じて(やりたいことなんてわかってなかったけど、なんとなく独りになる必要性を感じたと記憶している)しばらく東京やアートと離れたくなった。それで外国へ旅にでる準備のため、引っ越したのだった。当時のぼくが考えたこと、決断を否定するつもりはないが、端的にいうと、ぼくの了見は相当に浅かった。無知だったし、物の見方も単純だった。
物事のよさがわかるのは時間がかかる。物事が目に見える形にまで変化するのにも時間がかかる。ぼくがそれに気づくには、物理的にも精神的にも距離をとる必要があった。離れてみなければわからなかった。
ぼくが東京でアートに関わったのは二〇一二年から二〇一六年の四年くらい。二〇一七年から二〇一八年には、ぼくが所属していた東京造形大学のCSLABで企画をおこなった。記録ではそうなっている。しかしたった数年、と思ってしまう。もっと長い時間を過ごしたと思っていた。それだけ濃い時間だったということだろう。そして決定的な影響を受けてしまったということ。
二〇一八年にはフィリピンに語学留学にいっている。すべて忘れて一からやりなおそうと考えていた、はず。実際しばらくは芸術のことは忘れていた。けれども文章は書きつづけていた。フィリピンから帰ってきて、長野にいたときに出会った知人や友人たちとの対話のなかで――いや、次に京都にいってコロナの影響で再び長野に帰ってきた二〇二〇年以降のことだったろうか。京都でははじめて小説といえる小説を拙いながら完成させた。書きはじめたのは三十すぎくらいか――、徐々に過去のことに目をむけはじめ、思考もアートのほうへむかっていった。今では東京で出会ったひとたちと過ごした日々を受け入れられるようになった。
東京での日々の影響は、今の活動にもおよんでいて、そのことをはっきり自覚するようになった。家のことやそれにまつわる諸々のこと、ひととの関係、またそれらとも深くかかわる今執筆している本を思い浮かべる。生、制作を自然(自然ならざる自然)と地続きのものとしてとらえ、またそれぞれの概念を分析、再定義する仕事は、ぼくの知る限りなされていない。おそらく画期的なものになるだろうし(わからないからまだ調査が必要。あと三年~五年くらいはかかるだろうか。いやもっと……)、読んだひとが自由になるものになるだろう。ぼくの活動もそうだが、その著作をなんらかの形で残すことで、かかわってきたひとたちへの返礼となれば嬉しい。ひとまず初稿ができたら何人かに読んでもらい、フィードバックをもらおうと思っている。研究機関にいないから、客観性を保つ工夫が必要。知り合い以外の専門家にもあたらなければならない。第一に自分自身を喜ばせたい。励ましてあげたい。なかなか風当りの強い生だったから。
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