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一月十八日

  • takashimorijiri
  • 1月18日
  • 読了時間: 7分

更新日:3月15日

共猟が中止になって、冬には通行止めになっている雪深い山にひとりで入っていった。耐寒性の長靴のさらに上まで雪に埋もれる。一歩一歩慎重に雪に足を踏み入れる。冬の山は静かで何もきこえないようだが、様々な情報に満ち溢れている。

森の番人であるカケスがやってくる。ジェージェーと警戒音を発する。古くは獲物の位置を教えてくれる鳥だったといわれるが、森の異物である人間ももちろんその検閲にひっかかる。カケスの音を聞いて、他の動物も森にいつもと違うことが起きていると察知し、緊張感を高める。少し動きをとめる。すると数回で声はやむ。単眼鏡をのぞくと羽に差した緑の印象的な美しい鳥が木にとまっている。しばらくすると別の場所へ飛んでいく。再び歩きだす。ゆっくり数歩進んでは立ち止まり、耳を澄ませ、周囲をみる。山では目も大事だが、それよりも耳。どんな音が鳴っているかよく聴く。鳥が鳴く。その鳥はどんな鳥か。どこで鳴いているか。鳴き声はどんな意味か。

イヌ科のヴァンヴァンという高い鳴き声が聞こえる。狐が威嚇するときの声、山の上から狐が走ってきて雪に埋もれた山道を横切る。こちらには気づいてない様子。もう一匹降りてくる。家族だろうか。狩りをしているのか。喧嘩をしているのか。狐の通ったところに真新しい足跡が残っている。勢いよく走っていったから、前足と後ろ足の跡の幅は広く、ぼくが見たように飛び跳ね去っていったことがわかる。足跡の形をよく見ておく。他のイヌ科に比べて縦長な五角形。雪の崩れ具合から新しいものか判断する。風が吹いたり雪が降ったりしていれば薄れるし、昼間、気温があがると雪が解けて角が丸まる。山に入る度に観察し、学んでいくことはぼくにとって大きな喜びになっている。

狐は遠すぎたし、撃つ間もなかった。さらに山の奥へ歩いていく。周囲には数種類の足跡があり、動物たちの生活の一端をうかがうことができる。ただ細かい種類を判別することは難しい。雪が深くて足跡が崩れてしまっているし、知識がまだ足りてないから。小動物か大型のものかは判別できて、大きいほうの足跡をたどっていく。

結局獲物をとることができなかった。午前中だけの猟と決めていたから昼過ぎに引き返した。

帰り道、ヂヂヂヂヂという声が聞こえる。鳴き声の性質で、そのものがどんな様子か想像する。高ければ小さいし、低ければ大きい。また状況によって鳴き方はさまざま。声は体から息を出し空気に振動を伝えることで発生するから、その響きでいろいろなことがわかる。

おそらくシジュウカラ。ヂヂヂヂヂは「集まれ」という意味で、すぐに周囲にたくさんの仲間たちが集まり、ツーピー「警戒しろ」という鳴き声を発し合う。

これは数年前から話題になっている動物言語学者で、シジュウカラの研究者である鈴木俊貴氏の出ている動画やウェブサイトから得た情報。

動物にも言葉があるんじゃないか、と幼い頃から思っていた。今は学術的にそのことが証明されている。研究によるとシジュウカラは互いに鳴き声の意味を理解し、二十種類以上の単語を組み合わせ、文法を形成しているとのこと。だよな、と思う。動物が人間と同じ「意味」として理解し合っているかどうかは疑わしいけれど、鳴き声によってコミュニケーションをとっていることはわかる。またそれは別種の動物間においてもいえて、おそらく森のどんな動物も、他の動物、とりわけ、もっとも早く異変に気づきやすい鳥たちの鳴き声をきいて判断を下していることは容易に想像がつく。その一次情報に、異物の音や匂い、姿などから総合的に判断し、様子を観察するか、危険であればできるだけ早く距離をとって姿を隠す。

エドゥアルドコーン『森は考える』では、木々をはじめとする森のあらゆる生体が、記号のネットワークを形成していると書かれている。そのネットワークにぼくもまたいる。異物として。いつか馴染むことはできるだろうか。

足跡からすると、動物たちは朝、小川に水を飲みにいって、そのまま日の当たる反対側の斜面に向かったようだ。昨日は寒気による強い風が吹き、気温が下がり、じっとしていることをしいられただろう。今日は風はやみ、空は晴れて、動物たちが活発に動きまわる日。人間とあまり変わらないなあと思う。寒いと動かず、なるべく暖かい、過ごしやすいところにいく。


実家に帰り犬の散歩をしてきた。犬は人間の意図を理解する。友人という感じ。ぼくは猟犬を飼っていないけれど、もし飼うとしたらいい友情を築くことはできるだろうか。犬は狼が家畜化されたものといわれており、猟の習性は変わらない。狩りのために生き物を飼うことに違和感があった。生き物を道具として使っていいのだろうか、と考えていた。道具として使えるものなどあるのだろうか、とも考える。無機物の道具、たとえば薪ストーブやスマートフォン、パソコンをぼくは使えているだろうか。それらはぼくの使用から逃れて独自の動きをすることがよくある。

火事という概念は火が通常はおとなしいものであることを前提としている。しかし火がおとなしいなんてことはない。火は燃焼の化学反応で勝手に暴れていてたしかに制御しなければ大変なことになるが、それは大変なことになる状況がそうさせるだけで火にとってはふつうだ。つまり管理しなければならない環境がそうさせるわけで、たとえば、山火事が起きたとしても、人知れない山奥だったとしたら、人間にとって何がどうということもない。火は燃え広がり、動物は逃げ、植物は燃え、周囲は炭化し、月日が流れると芽吹き、森が形成される。

スマホには日々使われていてジャンクな動画ばかり見てしまう。ぼくの方が道具みたい。

パソコンで文章を書く。文章は勝手に生まれるわけではなく適切にキーボードのキーを押さなければならない。頭に思い浮かんだ文を即座に打ち込むわけだが、浮かんだ文と異なるキーを打つと思った文と違うふうになる。

ぼくはキーを、正確に打つよう義務づけられており、これもまたぼくははたして道具として使っているのだろうか、と考えてしまう。また文は書かれたとたん他人事のように画面にふんぞり返っていて、なかなか思うように動いてくれない。違うふうにしたいと思って直しても、同じように文は文としてそこに鎮座している。ぼくが文を成立させているのか、文がぼくに成立させているのかわからない。だからといって困るというわけでもないのだけど。ただそうなっているというだけで。

ぼくはいままで獲物をとったことがない。捌くのを手伝ったことはあるけれど。けれども猟をするからといって何か獲らなければいけないという決まりはない。殺さない猟師がいたっていいと思う。それが猟師といえるかはわからないけど。猟の道程で表れるさまざまな事象と戯れるだけで、ぼくは十分に満足してしまう。獲物はとれなくていいとさえほんとうに思う。しかし、それでも獲物を追う。獲れればいいと思う。猟をするとはそういうことで、そういうことであればこそ、その過程の体験が素晴らしいものに思えるのだろうか。狩猟は殻みたいなもので、その内容物をぼくは楽しむ。内容物だけで楽しむことは難しい。出来事には殻があったほうがより面白い。というか出来事とはそういうものなのかもしれない。

シジュウカラが木々の柔らかい芽をついばむ。鳥にも皮膚があるように、芽にも表皮があり、それが鳥の中で分解され、鳥の一部になり、無駄な部分は排泄される。

シジュウカラという名前は人間がつけたもので、シジュウカラ自身は自分たちのことをシジュウカラだとは思っていない。

けれどもシジュウカラは人間にとってシジュウカラなのである。

シジュウカラとは人間にとって殻のようなもので、内容物のシジュウカラ自身はシジュウカラではないのだが、それ自身ではあるのだ。なんとも不思議だけれど。これは言語学でいうシニフィアンとシニフィエというやつだ。わたしたちが使うあらゆる言語や記号は、指示するもの(記号表現)と指示されるもの(記号内容)によって成り立っていると解釈できる。これも殻と内容物の関係と同じ。

他にもいろんなものに、この殻と内容物の相関関係がみられる。これは原理なのだろうか。それとも、人間の認識がそういうパターンでものごとを読み取るからそう思えるだけなのだろうか。よくわからない。どちらにしろ、人間が言語で何かを表すかぎり、人間の認知機能の在り様から逃れることはできないのだが、そのように考えるのを卑下するべきでもない。むしろ謙虚に世界を受け入れ、無知を、無力を言祝げばいい。

体験は言葉から逃れていく。物事も。

森を歩きながら思索する言葉たちもまた森のように広がっていくことを感じながらぼくは精神的に満たされる。フラクタルを連想する。

 
 

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