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三月二十九日

  • takashimorijiri
  • 2022年3月29日
  • 読了時間: 4分

壊れた便器をとりはずした。

Youtubeに投稿されていた作業動画をみて、じぶんでできると判断しやってみたが、やはりそこまで難しい作業ではなかった。ネットに技術を公開してくれている水道屋さんに感謝しなければならない。トイレの仕組みなんていままで考えたこともなかったけれど、この機に少し調べてみた。基本的なつくりはシンプルなのだが、細かいところで各社のこだわりがあり、消費者が何を重視するかによって、どの便器を選ぶのかが変わってくる。

水が漏れていたので、床が心配だったが、幸い大事にはいたらなそうだ。念のためしっかりと乾かし、ワックスを塗りなおそうと考えている。

ひとを呼ぶとなるとトイレにこだわりたくなる。すぐにはどれがいいか決めることができそうにないのでしばらく考えることにする。いまさら気づいたのだが、トイレの空間全体のデザインも考えなくちゃいけない。


はずした便器をみて、デュシャンの『泉』を思いだした。それまで使われていた便器が壊れてはずしたとたん、別のモノにかわる。ぼくの場合、使えそうな部品以外は、ゴミとみなしたが、かれはどこからか小便器をもってきてアンデパンダン展にほうりこみ芸術にした。反芸術の系譜はマネなどの落選展にさかのぼることができるが、反芸術が芸術に転化するジレンマから逃れられたものは「美術史」のなかには誰もいないし、これからも現れることはないだろう。


ボリス・グロイス『全体芸術様式スターリン』には、アヴァンギャルドが政治的な権威と同じ性質をもっていることが描かれていた。ロシアの前衛たちの生活と芸術の一体化の夢の果てが、スターリン独裁下の社会主義芸術、みたいなことが書かれていた気がする。思えば未来派とムッソリーニも。ヒトラーは画家志望だったが、かれはある意味最悪のアヴァンギャルドを演じたともいえる。

いかに生、生活と芸術。あるいは政治と芸術の一体化をのぞもうと、それは芸術の消滅などというアヴァンギャルドの夢の成就とはならないし、それを他者にも求めたとたんにファシズムに陥る。

ごくごく個人的に自足的になされる場合にのみ、芸術は消滅し、生と一体化する、という最後の線が考えられるが、それは悟りにいたったということに近いかもしれないし、狂人、白痴になった、ということでもあるのかもしれない(そこに芸術の側から「アウトサイダーアート」という一つの枠をあてはめることはできる)。グロイスはその領域を否定していたとうっすら記憶している。それは人間をやめた、ということになるからだろう。自らの意識から芸術という概念が消える境地に、一度芸術を知った人間がいたれるのかどうかははなはだ疑問に思う。一度あったことをないことにはできない。なにかのSFみたいな世界になって、記憶を消すことができたら、芸術を消すひとが現れるだろうか。それは宗教者の悟り、解脱などと同じように、誰もいたることができない場所なのかもしれない(悟りとはその場所さえもない、ということのようだから)。たとえば、たまにあるアニメのパターンで、悪役が人類の意識を奪い、夢をみせることである種のユートピアを実現しようとするのに似ている。圧倒的傲慢。柳宗悦の民芸の考え方は、芸術と宗教の結びつきが色濃いが、それだって文字にしたり団体化、運動化したとたんきな臭くなる。

とはいえ、生あるいは生活と芸術(あるいは宗教)のあいだに「豊かさ」のようなものがあるのは事実らしく、そこをヒントにいろいろやりながら考えることはぼくがしたいことの一つなのだ、と思う(このあたりは、やはりどう考えても何人かの影響がある)。


ここまで書いたことはあくまでことばであって、行為の外殻みたいなものだ。じっさいに行為しているときは少なくとも、表立ったことばをつかって考えていないことがおおく、それが芸術だとか芸術でないとか悟りだとか無の境地だとかどうでもいいふうになっている。その行為している本人にとってそれ自体が大切なものであるならば芸術かどうかはどうでもいいかもしくは副次的なものにすぎない。たとえば、治療、治癒としての芸術ということもある。けれども外殻をもつことは、ともすると境界をうしないかねない行為を有限化してくれる。外殻はある種の安全性を確保する手助けにもなる。

芸術でもいいし、芸術じゃなくてもいいし、各々が自由にあまりまわりを気にせずに、てきとうに真剣にやっていけばいいのだろう。それが難しいということなのだろうけど。



 
 

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