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三月十五日

  • takashimorijiri
  • 2022年3月15日
  • 読了時間: 8分

更新日:2022年3月31日

気温があがり、雨が降り、晴れた。雪はだいぶ溶けてきた。

止水栓がみつかった。ちょっと嬉しいのでたくさん書きたいと思う。

裏の家の方がだいたいの場所がわかるということで、一緒にさがしてくれたのだが、いっこうにみつかる気配がない。裏の家の方によると、市の上下水道局に電話できいてみるのがてっとりばやいとのことで、ぼくは水道局に電話をかけた。電話にでた受付の方が、担当にきいてみるということで、住所と名前をつたえ、折り返しの電話を待った。

数分後、電話がかかってきて、ぼくは電話にでた。

ぼくは指定された場所の雪をスコップでかいてみた。コツンと何かにあたった。青い長方形のプラスチックの板が顔をだした。


ぼくが大規模作業をはじめた一番最初の場所のすぐ横に止水栓はあった。ひさしぶりに「灯台下暗し」に当てはまることを体験した。以前は何でそう思ったのか、もう思いだせない。


ぼくのいままでの雪かきは意味がなかったのか、というと、意味があるともいえるし、意味がないともいえる。そんなことはどちらでもいいのかもしれない。けれども、昨今の効率性全盛の世の中にあって、ぼくはどちらかというと遠回りの肩をもちたいと思う。「じゃあ、具体的に遠回りしたことで何が得られたんですか? メリットは?」と近道至上主義の方々はいうのかもしれない。その問いに即座に答えることは、あまりにも「近道」的なので、できれば避けたいが(自分で考えていただくか、あるいは、やってみていただくのが「近道」かもしれない)、あえて答えるとすると、ぼくが困ってることで、周囲の方々に気にかけていただいたことや、そのことがきっかけで、何気ない話をしたり、笑いあったこと。それからもちろん、雪かきはよい運動になったし、何も考えずに体を動かす時間はとても貴重だ。というか、何も考えてないようで、考えていることがたくさんある。「これは一般的にはなかなか理解しずらいことだが、何かつくっているひとなら、誰しも直観的にわかることだ。」と最初書いてしまって、あとから読み返してみて思ったが、とても偉そうだ。まるで「何もつくってない」ひとがほんとうに「何もつくってない」かのようだし、「何かつくっているひと」があたかも特別で価値のあることを秘密裏におこなっているかのようだし、まるでぼくが「何かつくっている」かようだ(まあじぶんではつくっていると考えているけど)。これはよくない。というか余計な誤解を生む。けれど、あの「考えずに考える状態」をどう書き表したらいいのかわからない。おそらく脳科学者とかなら、うまい具合いに解説してくれるのだが、それも腑に落ちない気がする。なぜなら、そんな簡単にことばであらわせるはずはないと思うからで、これもこれで密教っぽいが、そうではなくて、ほんとうは誰にもことばにできないし、誰でも自然にやっていることなのかもしれない、と思うからだ(こんなことをいうと、そもそも言語とはみたいな話しになってしちめんどくさくなるので、なんとなく察してほしい)。ついでに、雪かきのコツを会得することができたが、それはおまけみたいなものかもしれない。じゃあ、もし止水栓がずっとみつからなかったら? それでも雪かきしつづけたの? ときかれたら、すいません、わかりませんと答えるだろう。


裏の家の方に、止水栓がみつかったことを報告すると、三月の区の総会のことや、狩猟のことに話がおよんだ。旦那さん(最初「ご主人」と書いたが、後で書き直した。以下についても同じく)は檻をじぶんでつくったり、罠をはって、獣をとって捌いていたこともあるそうだ。銃の免許もとったら、と旦那さんはいうが、まず罠からです、とぼくはこたえた。ぼくが狩猟免許をとったら、一緒にやろうといってくださった。何かとることができたら、食事でもと。狸鍋――で思いだした。先日、東宝の駅前シリーズ「駅前茶釜」をDVDでみたのだが、そこには狸鍋が犬鍋にすり替わるというシーンがあった。「駅前茶釜」より、一作目の「駅前旅館」のほうが個人的にはよかった。フランキー堺がロックンロールをうたうシーンがスラップスティックという感じで好み。駅前シリーズはこの二作しかみてないが。

ところで、旦那さんは狸の皮で首巻きをつくったこともあるそうだ。


帰り道、車を運転しながら、考えたのだが、というか、最近インターネットで読んだことの影響で考えさせられていたと思うのだが、田舎で暮らすということは、圧倒的に男性が有利な社会で生きることを意味する。田舎ではおそらくただでさえ「こうしなければならぬ」があるのだが(都市にだってそれはありおおくは過剰な個人主義や極端に細分化された職業、階層、人種、ジャンルなどにごちゃまぜに隠蔽されているし、田舎はあからさまな「善意」や「正しさ」に支配されている、と例外を思いつつ便宜的にわけておく。そういうことは日本だけじゃなくて、世界中ほとんどどこにもあると思う)、特に男女の自由ということで考えると、圧倒的に男性が自由で、女性が不自由な視線をいたるところで感じざるをえない。そこで、ぼくが田舎で「自由」に暮らすということの特権について考えがおよぶ。ぼくがこうして好きほうだいできるのは、「男」だからにほかならない、ということがある。これは否定しがたい事実で、そのことで罪悪感もあるし、全女性に申し訳ないと思わずにはいられないのだが、そこで申し訳なく思うあたかも「全男性」の代表かのごとく考えるじぶんは何様なのだろうか。たしかにぼくは生物学的に「オス」であって、人間でいうところの「男」ということになるが、それにしてもひとつの個であることに違いないのであって、そこで男女の格差、差別について、罪の意識を感じるのはいささか論理が飛躍しちゃいないだろうか。おそらくここには過去、または現在も女性に対しておこなっている数々の愚行について無意識的に自覚していることも関連している。もちろん、個別の出来事では気をつけていることはあるのだが、それとは別に構造的にその愚行に加担してしまっていることもおおいにあることに考えがおよぶ。そのことが引っかかり罪の意識を感じているかもしれない。とはいえ、じゃあどうすればいいのといってもできることは、できるだけ構造的な問題に関わらないように生きるか、構造的な問題を解決するように働きかけるか、個別の出来事に常に気をくばるかしかないと思うのだが、特に危ういのが、構造的な問題に関わらないように生きるということで、おそらくこれは、一見わたしは何も関係ありませんよ、という顔をしながら、実際には原理的に不可能だからだ(たとえ、森の奥で社会と一切かかわらず、ひとりでひっそり隠者のごとく暮らしていたとしても、世界でおこっている出来事は、起こっているわけだから、その事象と無関係に生きる、ということは「構造的」には不可能だ。そこで「関係ない」といえるとしたら、「関係ない」という関係、といった構造に飲み込まれてしまうが、この論理というのがどうにもおかたく、あらゆる生のありようを単純化しかねない窮屈さがあるようにも感じるので、「関係ない」といってしまいたい気持ちもとてもよくわかる)

だから、どの道ぼくは個別の出来事に常に気をくばりつづけ、なおかつ構造的な問題の解決にできるだけ働きかけるようにするしかない(できるだけ、の程度は、本人にゆだねられることが健全だと思うが、最低限という議論になると法にたよらざるをえない)。けれどもぼくはヘタれだから、表立った積極的な活動をする気がおきないし、なんならちょっとしたことで直接傷つけてしまったり、間接的には見て見ぬふりをしてしまうこともいまだにある。それで少なくとも平気なように生きていけるのは、ぼくが「男」というマジョリティ側だから、やはり、ごめんなさい、と思わざるをえないのだが、それは同情とはちがくて、そこには圧倒的な非対称性がある。ぼくは、想像することはできるが、ひとりひとりの女性の気持ちが完全にわかるわけがないし、ましてや女性になることはできない。「可哀想な女性」像を女性におしつけ、全面的に、俺が守る! 的マッチョは、まずだいぶちがう気がするし、やたらめったら優男的に、だいじょうぶですか? とかもちがう。女性よ、つよくだいたんであれ、とは口が裂けてもいえない(もちろん、余計なお世話だ)。どのようにテーブルにつけるのか正直わからない、というかテーブルにつくか、つかないか以前にケースバイケースで、ただ個別の出来事に寄り添ってそのなかで考えていくしかないのかもしれないが、ひとまずぼくなりに勉強していくしかない、といってもたまたまやる気がおこったらということになってしまうし、いろんなひとと関わり、話をきいてみるといっても、偶然そういう機会にめぐまれたら、ということになってしまうので、やはりぼくはダメなのだ。というか、この「男」が「女」を語ることの理不尽さをどうすればいいのやら、とそもそも途方にくれてしまう。そんなこと語ってないで、ひたすら実行しろ、といわれたらそのとおりなのだと思う。

というか、ぼくは女性が好きです。


ここまで昨日書いて、読み返してみると、どうにもこれは他のひとが書いたりいったりしたものを読んだりきいたりしたことばが多分に混じっているように感じる。それでもそれらを組み合わせてじぶんという枠をとおして、文として結節させることで、書くこと、書いて考えることはその枠たるぼくにとって意義深いものなのかもしれない。

近々書くことについて書いてみたい。なぜぼくが、誰にも読まれなくても書きつづけるのか、ということについて(ほんとはこれを読んでるひともいるかもしれないけど、それはぼくにはわからない)。あるいは書くことの恥ずかしさについて。

これさえも。





 
 

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