九月十七日
- takashimorijiri
- 2021年9月17日
- 読了時間: 2分
戸隠のこの家にも、以前は誰かが住んでいた。
十年前から空家になっていたが、それまでは、高齢のおばあさんが一人で住んでおり、介護サービスを受けていたという。他の家族は小布施に引越していたようだ。そのおばあさんが長野市街の病院にうつり、亡くなってからは空家らしい。
もう業者に片付けられてしまったが、ぼくが最初この家を見学したときには、当時のままという感じで、物があふれていた。いまでもわずかにのこっている。
誰かが長年住んでいた場所を、じぶんのものにし、住むということは、少なからず誰かの記憶を、記録を、消すことにもなる。書き換えるといってもいいかもしれない。
物を捨てることもそうだし、家の一部を壊し、再構築することや、畑や庭をいじることも。そこにはなんというか、暴力のようなものが少なからずある。
ぼくは、特段あえて、この家についての記憶、記録を保存したり、何かに昇華させようとは思わない。なぜだかわからないけど、そういうことをしようとは思わない。たまにこの家にやってきて、物事が消えさって、時とともに流れていくのを、ただ呆然と眺めているだけだ。
おおくのひとは、忘れさられていくし、忘れていく。この家に住んでいたひともそうだし、ぼくもそう。
何らかの形で名前をのこし、記憶され、記録されているひとたちもいる。「~史」というのは、その集合みたいなものかもしれない。けれど、たとえ名ざされ、記憶され、記録されようと、それは本人自身とはことなる記号、あるいはその断片であって、本人には到達しえない。本人自身は消えさっていく。
たとえば、物や記録、作品は本人とは関係なくのこるのかもしれない。
この家に誰かが住んでいたということ、その記憶、記録のことを、たまには思いだして、ああ、こんなひとたちが住んでいたんだあ、とか、こんなことがあったのかなあ、とか、いろいろ思いを馳せていたい。それくらいの余裕は生活にほしいなと思う。
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