五月二十二日
- takashimorijiri
- 2022年5月22日
- 読了時間: 7分
更新日:2022年6月7日
弱音を吐く。
今日はほんとうは春祭りだったらしいので、バイトの休みをとっていたのだが、祭りは地区の伍長のひとたちが参加すればよく、ぼくの人員は特に必要ないとのことで、けれどもせっかく休みをとってしまって、しかも久しぶりに二連休ということだったから、シフトをぬけてしまって申しわけない気もするが、たまには飲みにいくかと戸隠に引越す以前よくいっていたバーにいった。
生活が落ち着いてきたから、飲み友だちやバーのマスターを戸隠によんで、飲み会でもやろうかと思って、その相談するつもりでいたのだが、そんな話しはする間もなく、なんやかんやといろいろな話しをした。
飲み友だちやマスターと話しをすると、じぶんが世間的にどうゆう存在か思い知らされるのだが、つまり30もすぎて独身でコンビニでバイトをし、これから新聞配達もはじめようとしている男性は一般的に哀れな目で見られるらしく、たしかにそういう価値観があることは知ってはいたし、ときたまそういう視線を感じなくもなかったが、会話のなかで直接そういうもんだといわれると、なんというか、ああやはりそうなのか、とけっこう精神的にくるものがあり、いやいや世間の目なんて気にせず堂々とじぶんのやりたいようにやればいいじゃん、という気持ちはもちろんあるのだが、かんぜんにひとの目を気にしないのはこれまでのぼくもできなかったし、いまもできないし、これからのぼくにも無理そうなので少し落ち込み、こうして何か書かずにはいられなくなり書いている。
世間的には30にもなって定職につかないことはふらふらしているようにしか見えず、しかも山に古い家を買って、ひとりで住もうとしているにんげんは、何やらふつうではなく、不穏でよくわからない、なんなら狂気の沙汰すら感じる存在なのかもしれない。「自由でいいですね」とか「夢をおってるんですね」とかたまにいわれるが、フォローしていただいてその善意はありがたく受けとるとしても、まったく他人ごとのフレーズには違いなく、その自由というのはとても切実な自由であって、ぼくは夢をおっているつもりはいっさいなく、現実的な選択としていまにいたったのだから(現実が夢ならばある意味おっているのは夢なのかもしれない。いや夢におわれているといったほうがいいか)、そういうことをいわれるたびに違和感はあるものの、あははと笑って受け流してくることがおおかったし、きのうもそうだった。もちろん、その場は冗談でいじられているのだからそれでいいのだが、いわれていることは事実といえば事実に違いなく、こころのなかで何か自意識みたいなものがむくむくと立ち上がってくるのを感じて、たしかにぼくは何者でもないし、履歴書にも書ききれないくらいいろいろな職を転々としてきたかもしれないが、ぼくはぼくなりに価値のあると思うことをその都度やってきた、という自負があることに気づき、その自負による自己像と周囲から見えるぼくの像のあまりの違いにこうしてショックを受けるのだが、その像が違うのもとうぜんといえばとうぜんで、それをわかってこうして生きてきたし、わかっているからこそ、受け流すことができるのだが、それでもぼろがでて、うっかり自己から見える自己の認識にもとづいて発言すると、何をとんちんかんな、何を滑稽な、といわれることは親しい友人いがいはなくとも、そういう場の空気になることをひしひしと感じることがありなかなかつらいものがある。
これを解消するには、ぼくが何者かになり、はっきりわかりやすく、ぼくはこれこれこういうことをやっていて、これこれこういうことを考えています、と説明できるようにならなければならないのだが、そういう何者かになることにとんと関心がなく、ぼくはぼくのわずかな興味とそのときの気分と環境にただただしたがっているだけで、そうなると結局何をやっていて何を考えているのかわからないひと、ということになり、つまりよくわからない何者でもない者になり、少なくともおおくのひとからは排除され卑下される、らしい。それがいいわけでもわるいわけでもないのだが。
じゃあどうするかといったら、たとえば、ぼくは芸術家ですとか、隠者ですとか、どこぞの会社で勤務何年で役職はこれこれで、というのでもなんでもいいのだが、やはり世間的にある程度納得してもらえるなり評価されるなりして何者かになるしかないないのだが、ぼくはバーのマスターにいわれるとおり「アートくずれ」であり、「クズ」であり、ぼくがいまのところなれる者といったら、店の開店を目指しているひとか、じっさいに店をはじめ、店主としてふるまうか、あるいは、恥ずかしながら片手間に書いている小説を新人賞にだしつづけ賞をとり、本なりなんなりを世に問い、作家、小説家になる、ということしかないわけだが、まずぼくははっきりいって商売への欲望がほとんどといっていいほどなく、たしかにいろいろな職を渡り歩いてきた身としては、商売というものを頭では理解しているが、売れるために何かをやる気がてんでおきない。だから店をやりそれだけで食べていくことはしたいかといわれたら、べつにしたいとも思わないし、やろうと思えばできるかもしれないが(人間だれでもやればできる、という意味において)、やる気がいまのところおきない。だからといって覚悟がないから店をやらないほうがいいのかといったら特段そうも思わない。こういう考えが甘いといわれたらそうなのだろうが、ともかくいまはやりたいようにやるだけなのだろう、などとやりたいことも具体的にわからず考えているからダメなのかもしれないが、まあいいや、と思うことにする。
小説にかんしていえば、新人賞受賞などあてにならず、万が一何かしら形になったとしても、そのあと作家としてある程度キャリアを積み重ねていけるかはわからないし、じぶんがそうしたいかといったら、かっこつけているようだがけしてそうは思わず、べつに作家ワナビーを卑下するわけではないのだが、だからぼくは作家志望ではないのかもしれないが、評価されようとされなかろうと、ただただじぶんがよいと思う作品を書き続けることしかできない。それしかしたくない、と最初書いて、あとで読み返してみて、それは違うな、と思ったので書きなおした。もちろん評価されたら、もう関係のない、そのときのじぶんの書きおえた小説を、そのときのじぶんを思ってじぶんのことのように喜ぶだろう。
こうして文字にして客観的にながめていることで、少しはいまのじぶんがどうなっているのかわかる指針にはなる。そのために書いているかといったら違うのだが、それでも結果的にそうなる。書くということにつきまとう自意識を恥ずかしながらも書いていくことでしかまえにすすむことはできないのだから、一瞬こんなもの書いてないで、つまり作業日誌はいったんやめて、ガチで店をはじめるために必死こくか、ガチで賞がとれるような小説を執筆することに専心しようかとも考えたのが、やはりそういうことでもないし、ぜんぜんやる気でないなあと思いなおし、なんだかんだぐだぐだと家を改築し続け、これを書き続けて生活していくのだろうたぶんよーしんらけども。
ほんとうは以下に書いた文があったのだが、人目を気にして恥ずかしくなって消してしまって、そのことについて数日くよくよ考えていたのだが――だって消された文がかわいそうだから――、まあ誰が読むわけでもないだろうし、べつにどうせ何者でもないクズなのだからどう思われてもいいやと思い、消した文をまたつけ足すことにした。以下それ。
バーでの会話は恋愛にもおよび、ぼくと飲み友だちにマスターは「どこかにおまえらと合うひとも絶対いる。超レアだけど。出会わないだけ」とはいうものの、そんなひとがどこかにいるか検討もつかないし、べつに無理して彼女をつくろうとは思わないし、そもそも相手がいないのだから、一緒に暮らしたいとも、ずっと一緒にいたいとも、ましてや結婚して、こどもがほしいなんてまったく思わないのだが、というか思えないのだが、こんなぼくをありのままに認めてくれるひとなんてどこにもいないだろうという虚しい正論にたどりつき、それが孤独かといわれたら孤独は感じないのだが、寂しくないかといわれたら、なんとなく寂しい気もするわけで、たしかにぼくや飲み友だちはひとりでの人生も満喫してはいるものの、どこかでそういう出会いを求めていることはたしかなのだ。まったくあてもなく。
ということで、書いたらちょっと気分がすっきりしたし、すっかり長くなってしまってとつぜんこんなこといいだしてアレだし、青汁のCMドラマみたいになってしまうがこれにつきる。彼女募集中!
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