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五月十八日2

  • takashimorijiri
  • 2022年5月18日
  • 読了時間: 7分

更新日:2022年5月21日

いくつかたまっていた文をウェブにアップして、読書でもしようかと思ったが、犬の散歩をしていて気分がかわり、これもあげておこうと思った。

戸隠に引っ越す直前に書いたもの。


――


引越しの準備をし、草刈りと庭の手入れを少しした。


作業をはじめると、あっというまに時間がたつ。草刈りや植木の剪定は、何かをつくっている感覚に近いものがある。何かを造形している感じ。家をいじるのもそうだが、粘土で塑像したり、絵を描いたり、プロジェクト、小説を書いたりするのと同じ感じがある。ぼくは音楽はあまりちゃんと?やったことがないが、作曲や演奏もそうなのかもしれない。小さいころはピアノをならっていた。先生のスカートの中をのぞきこんで怒られてばかりいて、上達しなかった。また楽器をはじめてみたい気もする。

それら美術、芸術と草刈りや植木の剪定の違いとはなんなのだろうか。おそらくつくっているときの感覚にあまり違いはない(本当はおおいにあるのだが、その違いについてはひとまずここではおいておく)。身体を動かし、何かをつくる。何かを削ぎ、消し、あるいはつけたし、それによって何かができる。というか対象が変化していく。

それが作品か作品じゃないかの違いなのだろうか。もうちょっと考えてみる。


芸術とされるものには、大なり小なり「彼岸」への渇望がある。ラスコーやアルタミラの壁画が神話的な世界観、儀式、呪術と一体だったように、現実とは異なる「あっち」との交信への渇望、祈り、願いがある。ラスコーやアルタミラの洞窟は、音楽なども演奏され、音が反響しやすい構造をしているという研究もある(たしか中沢新一のカイエソバージュで読んだ、気がする)。おそらく絵が描かれただけではなくて、そこでは、音楽が演奏され、踊り、歌い、酒や薬なんかも使われて、何かが催されていたのではないだろうか。絵についてはライブペインティングのような要素もあったのかもしれない。即興なのか、あるいは儀式の前にすでに描かれていたのか、あるいはどちらもおこなわれていたのか。


最近考えていたことなのだが、ひとはなぜ何かを信じるのか、あるいは信じるとは何か、ということだが、それは意識やことばに関係しているのではないか、というのがぼくが思い至ったことで、たとえば、何かを信じるというのには、二重性があって、何かを信じるということは、何かを信じるということを信じている状態、といってもよく、これは何かを信じない、ということにもいえて、それは何かを信じていないことを信じている状態ということができ、そのメタ、上位の「信じる」からはひとは逃れることができない。

つまりひとは何かをおこなったり、考えたりするとき、無条件に何かを信じているということができる。それはこの世界が「ある」ということだったり、その世界がどのように成り立っているか、ということだったりするが、ともかくひとは大前提の何かを信じている。


ことばは、考えたり、発したり、書いたりした途端、自己から離れ、他者化される。それはじぶんではない何かになり、その何かにはわからなさがある。つまり他者になるということだが、ことばを用いているとき、ぼくは無条件にことばを信じている。よくわからない他者にもかかわらず、そのことばを信じて考えたり書いたりしている。それはさっきの考え方と同じで、たとえ何かを信じていないと考えたり書いたりしても、その信じていない、ということばは無条件に信じている。そこには何か信仰のようなものがある。ひとの思考、おこないには根本的に信仰がある。ことばという他者化されたよくわからないもの、というか、ことば自体がよくわからないものをパッケージすることで生まれたものなのだろうが、カントの物自体のような認知不可能のものがそこにあるにもかかわらず、ひとはそれを信じている。


宗教は神を信じることで成り立つシステムだが、もし神を信じることが宗教的ならば、ひとは本質的に宗教的な生き物ということができる。他者とはよくわからないものであり、そのよくわからないあるものこそが古来より神と呼ばれ、さまざまな形で信仰されてきたものに他ならないからだ。他者が神であるとはいえないが、少なくとも、よくわからないものがそこにあるかぎり神的なものとはいえる。他者は神的なものである。


こう考えると、あらゆるところに他者(自己もまた身近な他者だ)があり、つまり神的なものがある。

ここまで読み返してみて、最近読んだ千葉雅也『現代思想入門』のデリダの解説を思いだしたので引用しておく。


一切の波立ちのない、透明で安定したものとして自己や世界を捉えるのではなく、炭酸で、泡立ち、ノイジーで、しかしある種の音楽的な魅力も持っているような、ざわめく世界として世界を捉えるのがデリダのビジョンである

(講談社現代新書 50p)


美術、芸術は、そのよくわらかない神的な他者、つまり対象や作品と関係を結ぶことで、世界があり、世界が成り立っていることを無条件に信じており、またその信じている世界を再解釈する行為なのだともいえる。

もしそういったよくわからない他者、世界を再解釈する営みが美術、芸術だとするならば、あらゆるおこないが美術、芸術とはいえないが(それらは制度でもあるから)、あらゆることが美術的、芸術的おこないになりうるということならできるかもしれない(ヨゼフ・ボイスの「すべてのひとが芸術家である」ということば、宮沢賢治の芸術観、鶴見俊輔の限界芸術論などが思い浮かぶ)。他者と関係し、関係を結びなおさないひとはいないのだから。もしかしたら、そういった他者との関係の結びなおしを、ある視点によって切り取り、パッケージし、棚にあげると、美術、芸術ということになるのかもしれない。


動物には信仰があるのだろうか。けれども動物は観念的な葛藤はないから、そもそも信じる信じないという二元論がなりたたない。だから動物は世界をただただ信じている、ということもできるかもしれない。あるいは、世界はみずからであり、みずからは世界であるというなかば悟りのような境地にあるのかもしれない。人間の上位の「信じる」、けして表にはでてこない人間の根本的な宗教性と、動物のそれは同じ性質のものなのだろうか。もしそうだとしたらやはり人間は動物を脱し得ない。宗教性はひとがひとならざるものでもあることの証拠にもなりうる。


その「信じる」はどこからくるのか。これもよくわからないけれどあるとしかいいようがなく、よくわからない何かから与えられていると解釈することもでき、ここにもまた他者がある。たとえば、シモーヌ・ヴェイユ、あるいはキリスト教における「恩寵」のようなものをよく覚えていなし理解しているとも思えないが思い浮かべてしまう。


これらを書いて数日がたったが、思いついたことがあったので、もう少し書いておく。

根本的な「信じる」を考察することに何の意味があるのだろうか、ということ。それを知ったところで事実はかわることなくありつづけてきたし、これからもありつづけるわけで、特に世界がかわるわけでもなんでもない。けれども、根本的な「信じる」を考察することは、みずからの思考、行動に影響を与えることもたしかだ。ちょうど無意識が意識に影響を与えるような解釈と似ている。人間は根本的に何かよくわからないけれども世界を、世界があるということを信じている、という解釈には、何か勇気づけられるものがある。「信じる」に影響され、また何かを信じることができるような気さえする。どうせ信じているなら、信じるか、といったような諦めにも似たものがこころに浮かんでくる。

たしかにことばで解釈をすることは、事実の外殻にすぎないのだが、その外殻は形を示し、つまり他者化されることで、解釈した自己に反射的に影響をおよぼす。


あれからまた数日、また「信じる」ことについて考えていて、なんでじぶんはこんなことを考えているのだろう、と思ったのだが、おそらくそれは、ぼくがなんでもかんでも疑ってかかっていたからで、というかすべてが嘘にみえていたことがあって、これはいまでもある意味そうかもしれないが、だから信じていないの裏返しである信じるに関心がむいたのではないだろうか。


根本的な「信じる」をストレートに表側の信じるにトレースしてしまうと信仰ということになり、なんの懐疑もない状態で、それはとても危険である可能性もある、ということにも当然のごとく思い至った。上位の根本的な「信じる」自体には善いも悪いもないのだが、表側の意味の次元での信じるには危うさがある。だからこそ懐疑が必要であり、つまり信じないを信じる状態が必要になる。

 
 

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