八月二十七日
- takashimorijiri
- 2023年8月27日
- 読了時間: 5分
更新日:2023年9月8日
見積もりをとっている。しかし思ったよりかかってしまいそうで、融資金も思ったよりかけなければならず、いろいろ考えてしまう。目ぼしい補助金を見つけたが、その申請施行が来年ということもあり、もう少し計画を見直す必要にかられている。
もちろんリスクはとらなければならないのだが、それほどリスクをかけずにやりたいことをやるフォーマットをつくるとなると、厨房や電気、水道、ガスなどの工事、機器費用がいまのままではたかすぎるということになる。費用をおさえるためには、レイアウトをかえて、つまり当初のイメージを妥協し最低限そろえられるものだけそろえる程度にしておくことになるが、それにしてもたかすぎる。そこで補助金をあてにしたいのだが、その補助金の審査に通るのか、通ったとしてどのくらいの割合で補助金をいただけるのかによって希望する融資金もかわってくる。よって補助金の条件や内容が具体的に把握できるまでは見積もりそして融資の相談も保留にしておく、というのがいまのところ正しい判断なのだろう。
それとともに、店のイメージを具体的にしておく必要がある。融資の際もそうだし、補助金の申請をする際もそうなのだが、自分のやろうとしていることを言葉で説明できないことには何もできない。
最近友人と話していて改めて自分のやってきたこと、考えてきたことを振り返る機会があり、ここ数日いろいろ考えていたのだが、いままでのすべてがつながって全身が震えるほどの衝撃が走った瞬間があった。ばあさんの部屋で酒を飲んでいた時だ。
ぼくはここ数年、芸術と生の一体化を志向していたのだ、ということに気づいた。気づいたときの衝撃は、いままで味わったことのないもので、これを天啓というのか、と勘違いしそうになるくらいのものだった。というか、いままで生-芸術について本を読んだり、考えたり、実践していたにもかかわらず、ぼくはそのことに自信がもてなかった。そのことを考えていることに気づいていたのに、気づかないふりをしていた。ぼくはしばらく芸術と離れているつもりだったからだ。ぼくは自分が芸術にかかわっていたことも、芸術について考えていたこともすっかり忘れながら、それでも実践していた、考えていた。ぼくはそのまま芸術から遠いところでひっそりと暮らすつもりでいた。けれどもなんの因果かもう一度芸術と向き合うことになった。
武田宙也『フーコーの美学:生と芸術のあいだで』を読んでそのことを確信した。後期フーコーの自己への配慮や生存の美学については知ってはいたのだが、そのことがいままで自分の実感と結びつかずにいた。しかし今回の読書で自分の生とフーコーの理論が差異をともないながらほとんどぴったり一致した。
予備校時代、ヨーゼフ・ボイスを知って衝撃を受けたことを思い出した。「すべての人は芸術家である」という言葉に、制度化された美大受験で暗鬱としていたぼくは救われたのだった。
フーコーは「生が芸術作品ではないとはいえないのではないか」といった、らしい。フーコーの研究書を読んだあとに、フーコー・コレクションで自己への配慮や生存の美学に関連するインタビュー、講義を読んで、理解が深まった。ただフーコーは議論を人間においてのみに限定しており、ぼくが直観していたすべての生のサイクルにまた人の生が芸術があるというイメージとは直接的には関係なさそうだった。けれども十分に応用可能だと思った。
ちょっとまえに読んだコッチャの『メタモルフォーゼの哲学』やコーンの『森は考える』は人と他の生、植物や動物を地つづきで考える思考が展開されている。物質から生命の元が偶然生まれ、その変化-変身と適応のプロセスにあらゆる動植物や人があり、反復されるパターンがある。そのパターンを生においても芸術においても読みとることができる、とぼくは直観的に考える。そこに人と他の、生と芸術の溶解がある。ぼくはこのことを研究しないで研究していたのだ。本を書きたい、と直感的に思った。ぼくがどこまで理論化でき、またできたとして理論的なものにするのか、それとも別の、多様体のような、コラージュのような本にするのかはわからない。おそらく後者になる、ような気がする。対象とする生-芸術という射程が、体系的な表現方法におさまらないからだ。というか、そもそも書ききれるのか、というか書きはじめるのかすらわからないのだが、いままでやってきたことがそのままつづくだけなのだし、もう書きはじめている。こうして公開という形で書きながら思考すること、例えばそれは自己紹介、自分を正直にさらけだすことで不定形で暫時的な主体にエートスを与えることになる。それは創造-クリエイトである、とフーコーはいった、らしい。おそらくパレーシアに関する議論だったと思うのだが、正直に自らを語る勇気は十分に芸術的だといえる。たぶんそれをしている。ぼくはあまり他者に自分を多くを語らないのだが、これからは違ってくるだろう。変身している。自己への配慮、自己への延々とつづく検査と対話は、そのまま他者への配慮、正直さにつながる、とフーコーはいった、らしい。それはかれの権力論、権力の諸関係、一般的な政治における権力、統治のテクノロジーにもつながる。もっとはやくちゃんと読んでおけばよかったと思ったが、いま読んでいるのだからそれでいい。筆無精のぼくをたたき起こして、疎遠になっている影響を受けたひとたちに連絡をとってみようと思っている。相談してみることにする。いまは芸術史をもう一度みなおしている。
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