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六月二十八日

  • 2025年6月28日
  • 読了時間: 2分

更新日:2025年7月2日

そろそろがっつり草刈をやらなければならないが、まだできていない。近所のひとが道路沿いの草は刈ってくれていた。庭の草は少しとったが全然足りない。

今日は所持一年以上たった残弾の処理もかねて射撃場にいった。スラッグの静的射撃のみだったがおおくの知見をえた。

50mの距離だったが思ったより遠く感じたということ。8発撃って7発がポスター大の紙に命中。最初の4発が左上、内1発は枠外。残りの4発は左下に逸れ、内1発は的の真ん中から3番目の円に入った。すべて左にそれたのはおそらくぼくが右目が利き目であることに関係している。スコープなしのオープンサイトは両目でみると教えらえたが、それはクレーのような標的が視界の隅からやってくるような場合に限定しておいたほうがよいだろうということ。標的が止まっている状態のスラッグ射撃の場合、利き目で照準を合わせないと、どうしても精度が落ちる。


最初の4発が上にそれたのは、所持銃ベレッタA300アウトランダーが軽い銃で、射撃の反動で銃身がやや上にぶれた可能性があるということと、照準を合わせるときに銃身の先端にある照星が照門より上にいきすぎていた可能性が考えられる。照星が照門よりやや上に合わせられているのは問題はないが、やや上すぎていたかもしれない。あるいは狙いが上すぎていたことも考えられる。

いずれにしろ、もう少し撃たないと上達は見込めないということ。来月はもう少し静的射撃をやってみよう。スコープについても検討する。


撃った弾の弾道はみえない。発砲の衝撃は肩に伝わってくるけれど、標的に当たった実感もない。感覚から離れたところで物事がおこることに認識がおいつかず、どこかふわふわした感じがあった。原因となる事象は自ら、あるいは自らと接触している銃にあるのに、過程と結果はまったくの謎、宙づりの状態にさせられる。射撃が終わり、標的の穴をみてようやく、どうやら弾が発射され、空中を移動し、標的に当たったことが確認される。しかしやはりどうにも実感がない。不思議な感じだ。


このことはおそらく銃という武器の大きな特徴だと思われる。刃物とは違う、飛び道具を使うということ。


明日は猟友会の射撃大会が行われる。クレーということで、静的射撃ではないが。今日の練習を活かして取り組みたい。

弾をこめるときに挟んだ親指が痛い。

 
 

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