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六月二十四日

  • takashimorijiri
  • 7月4日
  • 読了時間: 4分

更新日:7月12日

夜勤明けで家に帰ってきて酒を飲んでいる。戸隠で買った蕎麦ジン。ボタニカルに蕎麦が使われている地元のジンでジントニックをつくって飲んでいる。生レモンで。

モヒートもやる。庭に植えたモヒートミントと二ホンハッカ、メキシコのライム、砂糖でつくる。労働おわりのこれが至福の時である。

もうすぐ合同射撃訓練がある。合同というのは猟友会の戸隠支部と鬼無里支部の合同という意味である。戸隠も鬼無里も物語にとんでいる。戸隠はいうまでもなく天岩戸にまつわる場所だし、鬼無里は鬼女紅葉が最期にいきついた場所と言われている。

ふと死について考える。銃は死を連想させる。他者を殺す、自らを殺す道具。

ぼくは銃をもっている。これは危険だと思われるかもしれないが、銃で頭を撃ちぬいて死ぬことを考える。けれどもそれは実際にはぜんぜん具体的なものではなく、ほとんどファンタジーといってもいいくらいに漠然としたものだ。

おおくの作家が自殺した。銃にかぎらずちょっと思い浮かべると、芥川、太宰、三島、ホーフマンスタール、ヘミングウェイ、ブローティガン、ウォレス。自殺とはいいがたいがアルコールで体を壊したフラン・オブライエン。アルコールや薬をやるのもまた小さな死だ。

死をともなう争いは人類はじまって以来(生物史においてどこからが「人類」かはおいといて)ずっとあるだろう。今もまた無意味な、明らかに無意味な殺人が繰り返されている。その無意味は悲劇という名の意味にしかとれないような意味を逆説的にぼくに突きつける。

勤務している老人ホームでもまた人は死んでいく。ちょっとまえまで「ふつう」に(『「ふつう」とはなんだろうか』という問いは、おそらくあらゆるところであらゆる人々によってなされているがどうでもいい)生きていた人間が、死んでいく。死もまた「ふつう」だ。ありふれている。

ラムのトニック割りを飲みはじめた。ラムは三角貿易(砂糖・銃・黒人奴隷)において発展した酒だ。そこでもきっと大勢のひとが死に、また救われただろう。そのひとりひとりを思い浮かべることは難しい。思い浮かべた死者が虚構だとしても難しい。歴史、物語、記憶もまた死んでいく。

ヴォネガットなら「そういうものだ」といっただろうか。『スローターハウス5』の「声」と作家の「声」は異なるものだ。

記憶が正しければブランショは死は経験できないといった。文章において作者はそこにはいないともいった。それを踏まえてかバルトは「作者の死」を、デリダは「差延」について考えた。この文において、書いている「わたし」はここにいない。

自分が死ぬことはちっとも悲しくない? わけがない。友人が死ぬのは悲しい。自分もまた友人なのだ。まだ近しい友人の死を経験したことはない。わたしに友人がいるとは思えないのだけど。正確には友人というのがよくわからないのだけど。むかしはわかっていた。わかっていたつもりになっていた。素朴だった。いまのぼくが複雑かは見方と場合による。

世話になり、影響を受けた師が死んだら、悲しいかもしれない。そうでもないかもしれない。そもそもわたしに師はいるだろうか。いるかもしれないし、いないかもしれない。

かつて愛したひと、愛しているひとがいなくなったら、悲しいかもしれない。きっと悲しいと思う。でも愛がなんなのかはわかっていない。

かれらはわたしの分身なのだ。かれらが死ぬことはわたしが少し死ぬことだ。しかしそんなわけない、とも思う。

わたしは殺さなければ生きていけない。他のひとが死ななければ、地球は人類であふれかえり、わたしが生きる隙間はなくなるだろう。死ぬひとがいればこそ、わたしは生きていられる。

生きるために生物を殺さなければならない。システマティックな生産と死においても、野生との対峙においても。冷凍庫には動物の死骸がある。はやく食べなければ。

人間、同種と他の種についての議論は分けるべきかもしれない。それはそうだろう、というのが実感に近い。でもぐだぐだ考えてしまうわたしには我々?人類と、他の種の違いがよくわからないときがある。たまにではない。しょっちゅうある。

この社会に、世界に絶望している。きっと何もできない自分自身にも。それでも生きなければならない。そう思わないときのほうがおおい。

欧米では能動的な自殺を肯定する法整備がすすんでいる。「合理的」に「自分の意思」を尊重すればそうなるのは必然だ。けれどもそういう意味の「合理」や「自分の意思」が多数をしめるなら、本当に恐ろしい。人間の劣化を感じる。人間は滅亡するだろう。遅かれ早かれそうなるのことは、事実なのだけれど。

けれども生きなければならない。

 
 

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