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十一月十七日

  • takashimorijiri
  • 2021年11月18日
  • 読了時間: 4分

更新日:2021年11月24日

戸隠にいって、水道管の凍結防止の作業をした。といっても、以前、壁に穴をあけて、水道管が裸になっている箇所にタオルを巻きつけビニールで縛り、いらない灰色のスウェットと水色のセーターを止水栓に突っ込んだだけなのだが。それから水抜きもした。

庭の様子がまた変わっており、茶色がさらに濃くなって、落ち葉がたまり、景色が色褪せ、すっかり晩秋の風景になっていた。とても好みの感じだ。たきぎでもしながら、一杯やりたくなる。

気温が-4℃以下になると、水道管が破裂する可能性がでてくる、それは全国どこでも一緒、という情報を目にすると、遠くの知らない誰かも同じことを考えているのかもしれないと思い、不思議と親近感がわき、感慨深い気持ちになる。もちろん、隔たりも十分感じているけれど。まだそこまでの冷え込みはないが、早めに備えておいて悪いことはない。


「例えば、自分に関係のある近所の環境は私の延長であり、その延長は私のようなかたちをしていないけれども、同じ現象を歩むことが理解できれば、私といわれている肉体がこのまま消えていったとしても、それほど恐怖に思わないでしょう。最終的に、肉体というものは自分の周りに違う環境によって物質的にも表現される。」荒川修作と藤井博巳との対談集『生命の建築』(水声社)


「そこで荒川は唯一"額"の中に入っていないものとして、建築のことを言う。」保坂和志『小説の誕生』(新潮社)


「……(略)……建築以外の芸術はすべて、それに似ていますね。人間の身体の行為や感覚、そして「肉体」というものや現象が、はじきだされてしまっているからです。」荒川修作と藤井博巳との対談集『生命の建築』(水声社)


「荒川は「建築だけ」と言うけれど、私は言葉も同じ働きをなしうるのではないかと思っている。」保坂和志『小説の誕生』(新潮社)


「あらゆる形式において、「精神」は非常に重要視され、極限まで追求されることが望ましいとされながら、一方の「肉体」やその行為は、本質的には考慮の範囲外に置かれています。唯一、私の考えている「建築」の形式が、芸術、哲学、科学の総合にもっとも適していると思ったのです。もちろん、今までの建築のもっている意味とは、まったく違っていますが……(笑)」荒川修作、マドリン・ギンズ『建築の生命』(河本英夫訳)


保坂和志の本をいくつか読んでいて、気になった箇所があったので引用した。荒川修作他の引用は、保坂の引用の孫引き。

引用されている荒川の本を読んでいないので、なんとも言えないが、荒川は既存の芸術について狭い解釈しか示していない。現代芸術には実に多様なアプローチがあることを知らないのか、そんなものは芸術ではないと無視しているのか、芸術の時点でどんな表現だとしても"額"に入っているからだめだということなのか、ほんとうは一度は書かれたが紙幅的なことで削ることになったのかよくわからないが、あまりにも想定する芸術が貧相すぎる(ぼくが芸術を語るなんておこがましいが)。

けれども、荒川の考える建築-芸術は、ぼくが考えている家のことと無関係ではないとも感じる。

ぼくにとっていまのところ建築は、ともかく目の前の家をなんとかすることで、それは経済とも無関係ではない。経済はeconomyの訳語だが、もとはギリシア語のοικονομία(家政術)-オイコノミア。οικος-オイコスは家を意味し、νομος-ノモスは法を意味する(Wiki調べ)。

語源的に何なにというのは、素直には信じられないのだが、ひとつの手がかりにはなる。アート-Artがラテン語のアルス-Arsに由来し、ギリシア語のテクネー-techneの訳語というのも。たしかハイデガーはギリシア語のテクネーからラテン語のアルスへ訳されるときに何か失われたものがあったと書いていたような(ハイデガー『技術への問い』)。何がどのように失われていたのか、それが書いてあったのか、なかったのかすら覚えてないけど。いま調べるのもめんどうくさい。あとで気がむいたら調べてみる。

当初、家を改築し、家について考えることで総合的な生-芸術について考えることもできる、という思惑もなかったわけじゃないことをいま思いだした。じぶんの考えていることなんて誰かからの受け売りの寄せ集めには違いないのだが(ずっと考えるなんてことは原理的にできないから、とぎれとぎれに、とりとめのないまま)、それでも身近な小さいところで、いろいろ試しながら考えることには意味がある。少なくともぼくにとっては大切なことなのだろう。いつもはそんなこと忘れているけど。

そもそもなんでこんなことしてるんだっけ。ただ住みやすい場所を見つける、あるいはつくりたかっただけのような。いや、ちゃうな、なんだっけ。もっといろいろあって、ごちゃごちゃしてた気がする。



 
 

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