十一月十八日
- takashimorijiri
- 2023年11月19日
- 読了時間: 4分
更新日:2月28日
事故にあった。直進していたところ一時停止していた車が飛びだしてきた。ブレーキが間に合わず、とっさの判断で対向車線にハンドルを切ったが、こちらの後輪周辺と相手のフロント、ライトが衝突した。幸いお互いけがもなく車も走行可能な範囲だった。相手もぼくも用事があるということで、めんどくさい事態は避けたかったが、一応警察に連絡したほうがお互いのためになるだろうということを相手に話し、警察に電話。ケガもなく、互いの車共に走行可能だったため、近くの交番での手続きのみで済みそうだった。教習に遅れることは銃砲店に連絡し取り次いでもらった。
警察での手続きがすみ、射撃場へ向かった。途中で電話すると、もう一人教習を受ける方がいるそうで、その方が終わったあとに受けることになった。
山道をのぼり、射撃場に着くと、まだ前の方が終わってないから待合室で待っていてくれとのこと。約一時間半、ヴァンサン・ゾンカ「地衣類、ミニマルな抵抗」を読んでいた。現代アート、近代芸術、思想、文学と地衣類を結びつけるエッセイは、地衣類をテーマにしたキュレーションの様相を呈しており、展覧会のような批評的エッセイ、という印象をもった。まだ半分くらいだが、今のところ、類比、アナロジーについて考えさせられ参考になりそう。なぜひとは、何かと何かを似ていると思ってしまうのか。アナロジー、比喩、寓話、メタファー。昔読んだ中沢新一の本だったと思うのだが、そういった象徴的思考が人類の認知にとって革命的であったことが論じられていたような気がする。それは言語の原理からしてそうだし、創造的な行為には必ず象徴的な思考がともなう。
ぼくが最近関心があったのは、人間が何かと何かと結びつけてしまうのは、それとそれが「同じ」原理、構造を持っているからだ、ということ。とりわけ、人間の心理や行動を、自然の事象と結びつけてとらえ考えることに関心が向いていた。というのも人間が、また人間の思考や行為が自然そのものであると考えはじめていたからだ。自然物である人間が、自然物である他のもの、動植物を自らにたとえるのは当然である気がする。
けれども人間はそのこと自体を言語によって認識することができる、メタ認知が可能である、それこそが反自然であり、人間を、また人間のつくるものを自然から分離する、というアリストテレス的西洋的伝統的な反論が思い浮かぶ。しかし最近思うのだが、言語も十分に自然だ、ということ。言語のランダムな、一方で体系的な構造は、まるで植物を思わせるものがある。このこと自体もまた言語で記述される、というメタ構造は、物質を包摂する物質といった自然界の入れ子構造とまったく異なることがないと思う。ではそのメタ認知が自然界のなかで「最後の入れ子」であり、だからこそ最上位の枠組みなのだ、という発想は、近代的な人間中心主義でしかないように思われる。どう考えてもそこに優劣をつけることはナンセンスで、人間のエゴでしかない。では、その言語をともないつくられる反自然的な人間のエゴイスティックな発想もまた自然なのか、という問いにはイエスである。自然は反自然も内包する、おそらくそういうことなのだろう。まったくのフラット、無。
だいぶ昔、プルードン「貧困の哲学」を少し読んだとき、最初のほうで神の振り子のような原理が宇宙、自然と同様、社会にもあることが書かれていたような気がする。最初に大きなビッグバンのような誕生があり、そこで発生したエネルギーが宇宙のなかで循環、分散、収縮し、地球が生成され、生命がなりたち、生物が進化、絶滅、適応を反復する。人間が生まれる。社会を形成する。その一連のエネルギーの流れが、神の振り子のような概念で解釈されていた気がする。そのことを思い出した。
地衣類と侘び寂びを結びつける文もでてきた。茶道、茶道具、茶室、茶人、庭、禅、鈴木大拙、ジョン・ケージ、キノコ、ブラックマウンテンカレッジ、ラウシェンバーグなどが連関される。サビィというマイナーなフランス人画家は知らなかったが、大きく取り上げられていて、総合性を感じさせる脱領域的なその移り気な人生、地衣類を思わせる絵画は確かに興味深かった。
そうこうしてるあいだに、教習の番がきた。一時間ほど射撃や銃の興味深い講義を受け、実践。雪が降ってきた。
射撃がこれほど難しく大変なことだとは思いもしなかった。まず基本姿勢をとることが難しい。安定した姿勢をとるために余計な力が入ってしまい腕が痛くなり、また余分な力が入っているから腕が体から離れ、手で標的を追って手打ちになってしまい飛んでいる皿に弾が当たらない。離れていた銃床が反動で肩に当たり、肩が痛い。後にあざになる。指導員の方のいうことをきいて、正しい姿勢ができしっかりと標的を追えたときはやはり弾が当たるが、そのいい感じを続けることがなかなかできない。雪が降ってきて皿もみえにくいし、寒い、筋肉が疲れる、肩が痛いなどで集中を持続することが難しい。考えて確かめながら打つから、打つ姿勢をつくるまでに余計な力を酷使してしまう。姿勢ができても気持ちの準備ができてないから焦って標的を追い、手打ちになってしまう。その繰り返し。なかなか難しい。
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