十二月九日
- takashimorijiri
- 2024年12月9日
- 読了時間: 7分
更新日:2024年12月17日
豊田市美術館へ杉田敦さんの講演をききにいった、というか杉田さんに会いにいった。そうしたら他の懐かしいひとたちにも会うことになった。会えないひともいたけど。美術館にいくこと自体久しぶりでちょっと緊張しちゃった。
展示もよかったけど、めちゃ寒いのに外でライブやってたタンクトップの農家ラッパーよかった。
講演はモンテ・ヴェリタについてのもので、数年前に東京でおこなわれた講演の内容と大きく変わるものではなかったけれど、細かいところは深まってたし、ぼくの視点も変化してるから、以前とは違ったふうにきこえた。
ぼくの実践やいま書いてる本(『自然-生-制作(仮)』)にもかかわるものだったと思う。考えたことをメモとして以下に公開しておく(講演内容のまとめではないのでご留意を。一部あるけど飛躍しまくってる)。
モンテ・ヴェリタに「総合性」があるとして、その総合性って「自然(自然ならざる自然)」になること、あるいは「神的(神ならざる神)」になることだと解釈できる(ベンヤミンを思い出す。神的暴力-カウンター→多様なカウンターの在り方)。
けれども「自然」と深くかかわる総合性はナチズムや、現代においてはエコファシズム、エコテロリズム(ティモシー・モートンが批判してる。欧米知識人のファシズム批判はほぼデフォルト。モートン自体はややかたくて好きではない)、カルト集団に結びつく可能性がある。単純な自然賛美は危ういということ(モートンのいう「美しき魂症候群」←ひどい名称)。
素朴な自然賛美ではない総合性をどう考えるか(いわゆる山に崇高さ、夕陽に美しさを感じたとしても)。モンテ・ヴェリタ周辺の運動が文明批判と深くかかわってることから、文明、テクノロジーと総合性の関係をどう考えるかが「新しい」総合性の一つのポイントだと思われる(たしかバカルギエフはその辺りを扱ってもいる。あるいは不純なものとの)。そこには実験(とりあえずなんでもやってみること。下手クソでもいい)や失敗の肯定もかかわってくる、と思われる(失敗の愛おしさ、失敗は世界の豊潤さそのもの)。けれども、やっちゃいけないこともあるのでは? という野暮なツッコミも可能。他者の視線の力学、法の力学について。法とは言葉でもある。有限性。あるいは失敗できる立場じゃん、という批判が想定される。ヘテロとか男とか金持ちとか欧米とか。失敗自体の価値はそういったこととは無関係にある、ということを示す必要がある。実験もしかり。物理学や生物学からも援用。
総合性と自然の深いつながりから「自然」をどう考えるかにそのヒントがある、とすると(というかたぶんぼくが山にいたからそうなっちゃった)、自然/文明の対立を相対化する方向があって、そっちの線だと世界は「全体ならざる全体」、「自然ならざる自然」として立ち現れてくる(わけわかんないかもですが、詳しくは本で書きます。『自然の哲学史』など自然概念の分析を参照。少し紹介すると、プラトンは「自然は技術、技術は自然」といっていて、アリストテレスは「技術は自然の模倣」といっている。ポイントはどちらも自然を全体のようなイメージでとらえていること。その焼き直しが西洋哲学でしばらく繰り返されると。たしかスピノザあたりから変わってくるという議論。自然に全体はない、全体ならざる全体、というアイデア。ソクラテス以前の哲学者は神話から自然を切り離し、ある種唯物論的に世界をみたが、いささか飛躍がすぎるところがあった。ソクラテスはそこに疑問をもって「汝自身を知れ」と自らの精神に関心をうつしていったと(『ソクラテス以前以後』など参照)。ちなみに「自然ならざる自然」には善悪はないということ。善悪の彼岸。ニーチェもスピノザ解釈の後そういってるとのこと)。
複雑系の議論(カオス、フラクタル、自己組織化)も参照できそうだけど、偶然性や複雑性、わからないことも含め世界を客観的に把握しようとすること(自然科学的態度)は考えを深める上では大切ではあるけれど(ディグるのは楽しい)、それだけで世界を知った気になるのは傲慢なのでは(態度は学者によるのだろうけれども。イカロスの翼、プロメテウスの火、バベルの塔、等々を連想)、とも思える(決定論と偶然論の折衷案ではなく、徹底的に偶然性を擁護すること? アガンベン? 読んでないけど。ダダ、フルクサス、ジョン・ケージ、メイヤスーの原始偶然。九鬼のいき)。世界解釈はあくまで解釈。そのようになってしまったものとして世界は事実ある。実在論。ほっとけや、勝手になるようになるで、ということ。世界を知ることはできない(神は隠れている、イデア、もの自体、語りえぬものを語る、など)、と謙虚に考えておいたほうが無難ぽい。何が危険か。危険を仮設することで議論が締まる。危険な言葉は拡張する。有限性。切断。他者の視線の力学。法の力学。造形、制作理論と同じ。力学が働き形をなす。生命も。じゃあ「知」って何? って話だけれども。あくまで仮のものじゃね? ということ。手がかり。手が仮。ヤドカリ。人間は弱いから。殻というか膜。だって今の社会(もちろん=世界、ではない)の危機はそういう傲慢さからくるもんじゃない? 何かを痛めつけるのは自らを痛めつけることだから(今やってる介護の仕事を思い出す。キテイも。相互扶助。後期フーコーの生存の美学、自己への配慮=他者への配慮? レヴィナスの顔、他者は神的、無限、わからないもの。ブランショ、バタイユ、ナンシー、リンギス、グリッサンの共同体論、と講演で出た名前を連想。自己を慰めることは他者を慰めること。逆もまたしかり。愛撫すること。カーマスートラ。フーリエ。物理と精神を平行で論じる。神智学協会の感情を表した絵画。造形と感情を同じ地平で考える。類似。ジル・ドゥルーズはある種のネット社会や加速主義の議論に回収されがち。でも実際そうなってる)。自らが世界であること、世界になること、というのが総合性において一つ重要なことには変わりはない。もちろん留保は必要だけれども。バランスってことなんかな。ちょっと違う気がする。だってその天秤のメモリってどう設定するのって話よ、誰が判断するのってこと。AI? データあんの?(エビデンス主義。テキトーであること。だいたいわかるじゃん的ノリ。グルーヴ感、寄り合い的ぐだぐだ性) 異端でありながら普通であることは可能か。仮設された基準だけれど。じゃあやっぱそのものになること。エロス。ベルサーニを連想。自然ならざる自然は「好きに生きよ」といっている。フランチェスコ? 親鸞?(ある種の神秘主義とアナキズムの親和性はいわずもがな高い。「すべてのひとが~である(できる)」系について)
とごちゃごちゃ考えたけど、まとめると(まとまってない)あんまでかいこととかつまらんこと考えず(そういうことも大事なのは自明。事務もそうだし、ジャンルも賞もあっていいし狙ってもいい、他者は敬わなければならない)、日常を好きに生きよ、ということ。そうすりゃ勝手にいろいろやるし、てんでばらばらになってくんで、結局は総合性すね、裸になれ、となる。そういうふうに受けとった。
越境性について。ジャンルに固執しすぎるのもどうかと思うけど、ジャンルはあってしかるべきで、というかあってしまうもので、だからこそ越境できるわけで。当たり前だけど。名を呼ぶこと。細胞には細胞膜がある。てか言語自体そういうもん。生きもんと同じ。シニフィアン-シニフィエ。入れ子。たら子。フラクタル。暗くなる。だじゃれ。アナロジー、比喩はズレをとおして「似てる」を、というか「同じ」であることの表象。技術も自然ならざる自然として相対化される。カオスと秩序の間、カオスの縁について。
バー、マジ楽しかった。ピザうまかった。ぼくんなかでは講演とバーはセット。会いたいひとたち、しかもなんと影響受けたひとたちに会えた。なんと数人も! ラッキー!
これからは会いたいひとにちゃんと会いにいって話しをしたい。何人かには勝手に書いてる原稿を送りたい。
独りが好きなぼくがこう考えるようになったのは長野の知人、友人たちのおかげでもある。感謝してる。週末はいつものカオスな店に飲みいく。いま二日酔いだけど。
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