十月二十一日
- takashimorijiri
- 2023年10月21日
- 読了時間: 3分
更新日:2023年11月13日
暇なので書く(暇じゃないけど)。
最近、薪用風呂釜を購入し、取りつけ作業をしているのだけど、いろいろ測り、ボイラーの肝である循環パイプや煙突の位置などを選定していて、結局基準となる風呂釜を置く土台になりそうな備えつけのコンクリートブロック(おそらくユニットバスにリフォームされた際に、前に薪で風呂をわかしていた時の穴をふさいだもの)を削ったほうがよいことがわかり、そのためグラインダーでコンクリート切断用のディスクとできればノミを買ったほうがいいことがわかった。
最近、郡司ペギオ幸夫「創造性はどこからやってくるのか」を読んでいて、彼は肯定的矛盾と否定的矛盾を制作に持ち込み、トラウマ構造をつくることで「外部」を召喚することが創造、天然知能であると定義するのだが、その説明はなるほどと思い、参考になるにはなるが、ところどころ文に飛躍があり、よくわからないところがあり、まだうまく理解できてるとは思えないが、今のところ彼は創造を考える際に、芸術を参照しすぎている感じがあり、せっかく生物学や物理学などの科学的知見や日常の出来事を盛り込んでいるのに、そこに優劣をつけているようにみえ、あくまで芸術に創造性の特権的な地位を与えており、ありきたりでつまらない、と生意気にも思ってしまう。
芸術、哲学、科学、日常などの豊富な「ジャンル」からの引用にもかかわらず、それらは芸術における創造の特権化に奉仕することを目的にそなえつけられた感じも否めず残念に感じた。科学者が制作するのはどうとも思わないが、肝心な科学的な冷徹な相対化の目が損なわれている感が否めない、とまだ読み途中なのだが仮に書いておく。
最初の創造の定義にいたるまでのマーガレットボーデンの引用は面白かった。
現代思想、現代アートの現状分析は要約だがよかった。ただ「外部」を志向することに注目していたブランショやバタイユ、それらの影響を受けた初期のフーコーへの言及はなされず、デリダといわゆる「他者」のおおまかな言及といささかまとはずれな?(ぼくの勘違いかもしれないが、ぼくの理解だと他者とは常に「外部」にあり到達不可能、無限の領域に属する概念であって、郡司が説明するような主体の理解に包括されるような全体ではないと思うのだが。例えばレヴィナスの「他者」ってそういうもんじゃなかったっけ)批判に終始していた印象がある。とはいえそれは、あくまで日常にベースをおいた創造を扱いたかった著者(「芸術活動に奉仕するため」の?)にとって不必要なものだったのかもしれない。
フーリエに注目しているところはよかった。
また人間中主義批判への解決が天然知能という人間の創造性を自然として先鋭化させる方にのみ論を展開しているようにみえ、結局それって人間を特権化してね? と思った。
他の生物の生から創造性を考えるヒントは得ているが、それはあくまでヒントであり、生物の生そのものに創造性を認めない。そこに断絶があり、もったいなさがある。他の生物やもっというと物質の様態と地続きの創造、制作の思考をぼくは期待してしまった。個人的にはそこのところを今後考えていきたい。
失敗や誤り、ぐだぐだすることを肯定する態度には勇気づけられた。
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